第七話 深夜のダンジョン

 深夜の空気が、まるで薄めたインクのように街を支配していた。


 習志野ダンジョンのギルドに併設された直営店。

 そこは、深夜とは思えないほど光で満たされた空間だった。

 自動ドアが静かに開き、冷えた空調が翔の汗ばんだ肌を撫でる。


 店内は清潔に磨き上げられ、商品は整然と棚に並べられていた。


 だが。こんな時間に客は翔一人だった。

 彼のくたびれた姿が、塵一つない床に影を落としている。


 まるで、この場所にふさわしくない異物が紛れ込んだかのようだ。


 彼は財布の中の現金と、磨き上げられたガラスケースの向こうにある商品を交互に見つめていた。


 十五万円と八千円。


 夕方の探索の稼ぎを足してもこれだけ。

 それは、健康な人間が一ヶ月を慎ましく生きるには十分かもしれないが、難病に冒された妹の治療費と高額な学費の前では、焼け石に注ぐ水滴にすらならない。

 瞬き一つで消え去る、儚い端金だ。


 彼の視線は、きらびやかな高級ポーションが並ぶ棚の、その隅に追いやられるように置かれた一本の小瓶に吸い寄せられていた。

 くすんだ緑色の液体が澱のように沈殿している、安物のガラス瓶。


『初級ポーション 五万円』


 橘澪が気前よく使ってくれた中級ポーションとは、何もかもが違った。

 あれは、飲む宝石のようにそれ自体が輝きを放ち、専用の美しい小瓶に収められていた。


 だが、目の前にあるこれは、まるで淀んだ沼の水を掬ってきたかのようだ。輝かしい商品群の中で、そのみすぼらしさがかえって際立っている。

 それでも、今の彼にはこれしか選択肢がない。


「これを買えば、所持金は……。あとは最低限の食費に……。だが……」


 だが、これ無しであの領域に踏み込むのは、ただの自殺行為だ。

 せめてもの保険。

 あるいは、死をわずかに先延ばしにするための気休めか。


 心の内で、血を吐くような葛藤が渦巻く。

 その時、脳裏にあの凛とした姿が鮮明に蘇った。

 夕暮れの光を溶かし込んだような琥珀色の瞳。


『無茶だけはしないで』


 その言葉が、今や鋭い棘となって胸に突き刺さる。

 綺麗事だ、と翔は奥歯を噛み締めた。


 持てる者が、持たざる者にかける無責任な同情。

 あんたに俺の何がわかる。


 無茶をしなければ、美咲は死ぬ。


 俺がやらなければ、誰がやるというんだ。


「……ください。これ一本と、保存食を三日分」


 翔の声は、自分でも驚くほど乾いていた。

 カウンターに立つギルド職員は、マニュアル通りの無表情で彼を一瞥すると、黙って商品をスキャンし、カウンターに置いた。


 レジの音が、彼の覚悟の重さを告げる鐘の音のようだった。


 ビニールの袋にパッキングされたポーションと、数本の固い栄養バー。

 くたびれたリュックサックにそれを収める。


 自動ドアが再び開き、湿った夜風が頬を撫でた。


 明るく清潔な店から一歩外に出ただけで、再び冷たい現実の闇に引き戻される。

 翔は一度だけ、自宅アパートがある方角を振り返った。


 そこには、安らぎも温もりもない。

 ただ、冷たい現実が口を開けて待っているだけだ。


 彼はすぐに、闇に沈むダンジョンの入り口へと向き直った。


 もう振り返らない。

 成果を得るまで、あの部屋には帰らない。

 いや、帰れない。


 この命と引き換えにでも、この泥沼から抜け出すための何かを掴むまでは。


 彼の背中は、決意という名の重い鎧を背負い、ダンジョンの闇へと静かに溶けていった。




 習志野ダンジョンの内部は、ひやりとした洞窟特有の空気が満ちていた。

 カビと土の匂いに混じる、微かな鉄の香り。

 それは、幾度となく潜った翔にとって、もはや職場の香りとも呼べる馴染み深いものだった。


 いつもなら、彼はこの上層階でジャイアントラットやゴブリンを狩り、日銭を稼ぐ。

 しかし、今夜の彼は、壁際を這うようにして進み、モンスターには目もくれなかった。


 彼の目的はただ一つ、より下の階層――中層だ。


 戦闘は徹底的に避ける。

 息を殺し、足音を消し、壁の凹凸に身を潜める。


 五感を研ぎ澄まし、モンスターの気配を敏感に察知する。


 これは、無属性である彼が、この非情な世界でかろうじて生き延びてきた「泥臭い戦闘経験」の賜物だった。

 どこにモンスターが潜み、どちらの通路が安全か。

 その生存本能にも似た嗅覚だけが、彼の唯一の武器だった。


 階層を一つ、また一つと下るごとに、ダンジョンの様相は明らかに変化していく。

 空気は粘性を帯びて重くなり、肌を刺すように冷たくなっていく。

 上層で聞こえていたネズミの鳴き声やゴブリンの甲高い声は消え、代わりに、洞窟の奥から響いてくる低く唸るような咆哮が、彼の鼓膜を不気味に震わせた。


 そして、ついに彼は10階層の最奥にたどり着いた。

 目の前には、さらに下層へと続く、巨大な口のような石の階段が広がっている。


 ここから先は、彼にとって完全に未知の領域だ。


 ゴォッ、と生ぬるい風が奈落の底から吹き上げてきて、彼の汗ばんだ頬を不気味に撫でた。

 それはまるで、獣の呼気のように、腐臭と血の匂いを纏っていた。


 ごくり、と唾を飲み込む。

 恐怖で足が竦みそうになるのを、奥歯を噛み締めてこらえる。


「美咲……待ってろよ」


 誰に聞かせるでもない。

 しかし、彼の全てを込めた約束の言葉。

 小さく呟くと、翔は覚悟を決め、その一段に足を踏み出した。


 未知と死が待つ、奈落への階段に。

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