第五話 一筋の光

 ごぶり、と粘性の高い唾を飲み込む。

 腹の奥で、焼けた鉄塊を無理やり押し込まれたような鈍い痛みが爆ぜた。


 息ができない。


 床に叩きつけられた後頭部がジンジンと痺れ、視界が激しく明滅を繰り返していた。

 ギルドホールの硬く冷たい石の床が、汗と泥と、そしてビールで濡れた頬に張り付いて不快だった。


 その、瞬間だった。


「――そのくらいにしたらどうです?」


 全ての雑音を切り裂くように、凛とした声が響いた。


 鈴の音のようによく通り、それでいて、どこか鋼のような芯を感じさせる声。

 その一言が、騒がしかったギルドホールの空気を一瞬で凍らせた。


 間宮たちが、ピタリと動きを止める。

 

 ざわめきと共に、遠巻きにしていた探索者たちの間に、まるでモーゼの奇跡のように一本の道ができた。

 

 そこに立っていたのは、一人の女性だった。

 

 彼女の存在は、まるで静かな夜に浮かぶ孤高の月のようだった。

 ギルドホールに満ちる汗と鉄錆の匂いの中、彼女の周りだけ空気が澄んでいるかのような、凛とした気配を纏っている。


 腰まで届くかというほどの長く艶やかな黒髪は、照明の下ではわずかに青みを帯びて見える「濡羽色ぬればいろ」。

 その髪はうなじのあたりで銀のリボンで緩く一つに束ねられているが、数本の絹糸のような後れ毛が、陶器のようになめらかな白い頬にかかっていた。


 月の光を練り込んだかのような銀糸の刺繍が施された、黒基調の軽量戦闘服は、彼女のしなやかな、しかし鍛え抜かれた身体の線を美しく描き出している。


 背負われた機能美を感じさせる黒いコンパクトボウ。

 そして、その指には風属性を象徴する翡翠色の宝石が輝く指輪のアーティファクトが嵌められていた。


 目を惹いたのは何よりも、その瞳。


 夕暮れの最後の光を溶かし込んで固めたかのような、深く透き通った琥珀色の瞳が床に倒れる翔をまっすぐに見据えている。


 その奥に宿る強い意志の光に、翔は魂の芯まで見透かされるような感覚に陥った。


 橘澪。

 

 戦闘服に身を包んだ彼女は、講義で時折見かける姿とはまるで別人だった。


 それは、物語の中に登場する英雄のように、気高く、そしてあまりにも美しく輝いて見えた。


 日本屈指のAランクパーティ『アストライア』に所属する、Aランクの天才。


 間宮の顔から血の気が引いた。


「た、橘……!? なんであんたが、こんなとこに……」


 その狼狽した声には答えず、澪は汚物でも見るかのように冷え切った瞳で間宮たちを一瞥した。


「弱い者いじめ。見苦しいだけです」


 吐き捨てるような、絶対零度の声。

 格上の、しかも将来有望なエリート探索者からのあからさまな侮蔑に、間宮の顔が怒りと恐怖で真っ赤に引きつる。


 だが、ここで彼女に逆らうことは、自分たちの探索者生命に悪影響を及ぼすことくらい、愚かな彼にも理解できた。


「……チッ! 行くぞ!」


 間宮は忌々しげに舌打ちを一つすると、仲間たちに目配せし、逃げるようにその場を去っていった。




 嵐が過ぎ去ったかのような静寂の中、澪は倒れている翔に駆け寄り、その場にすっと膝をついた。

 その動きに、戦闘服の裾がふわりと揺れる。


「大丈夫?」


 間近で見る彼女の顔は、人形のように整っていた。

 まるで汚れを知らない白い肌、心からの心配の色を映す大きな琥珀色の瞳。


 その全てが、泥と屈辱にまみれた今の自分とは、あまりにもかけ離れた世界の住人であることを物語っていた。


 殴られた腹を押さえ、何とか身を起こそうとする翔の口元に、彼女は有無を言わさず慣れた手つきで小さなガラスの小瓶を押し付けた。

 

「いいから、飲んで」

 

 抵抗する間もなく、冷たい瓶の口から、わずかに光を放つ粘り気のある液体が喉の奥へと流れ込んでくる。

 フルーティーな、しかし明らかに自然界のものでは甘い香りが鼻腔を抜けた。


 中級ポーション。

 一本、数十万円はする代物だ。

 

 人体に作用し、傷を修復する効果を持つダンジョンからのドロップ品。

 なぜその効果が生じるのかは解明出来ていない、人の手では作り出せない奇跡の薬品。


 翔が何か言う前に、驚くべき変化が彼の身に起きた。

 腹の奥で燃え盛っていた焼けるような痛みが、まるで熱い鉄に水をかけたように、ジュッと音を立てて消えていくような感覚。


 後頭部の痺れも嘘のように引き、鈍っていた体の感覚が急速に蘇ってくる。


 殴られた箇所から、温かいナニカが染み渡り、壊れた組織が再構築されていくのが分かった。


 ほんの十数秒で、傷は跡形もなく消え去っていた。


(これが……中級ポーション……)


 本来であればすぐにお礼を言うべきだ。

 しかし、翔の心の中では助けられた安堵よりも、圧倒的な格差を見せつけられた屈辱が、じりじりと心を焼く。

 

 この奇跡の液体を、彼女は躊躇いもなく使った。

 自分にとっては、稼ぎの何倍もの価値があるそれを、まるでただの消毒液か何かのように。


 感謝の言葉もまともに出ず、ただ掠れた声で絞り出すのが精一杯だった。


「……なんで」


 呆然とする翔を、澪はどこか悲しげな瞳で見下ろしていた。

 

「あんな奴らの言うこと、気にしちゃダメ」

 

 澪は翔の問いには答えず、静かに立ち上がった。

 

「無茶だけはしないで。あなたのような人は、いつか必ず限界が来る。死んだら、何もかも終わりよ」


 その言葉だけを残し、澪は踵を返すとギルドを去っていった。

 その美しい後ろ姿が見えなくなるまで、翔はただ床に座り込んだまま、唇を噛みしめることしかできなかった。

 

 痛みで滲んでいたはずの視界は、ポーションのおかげで今はっきりと澄み渡っている。


 だからこそ、彼女が去った空間だけが、ぽっかりと穴が空いたように見えた。

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