第四話 Fランクの現実②

 四時間に及ぶ探索を終え、翔が再びギルドのゲートをくぐった時、彼の体は鉛のように重かった。

 戦闘服は泥とモンスターの体液で汚れ、額から流れ落ちた汗が顎の先からぽたぽたと滴っている。


 ギルドホールは、深夜に近い時間にもかかわらず、探索を終えた者たちの熱気で満ちていた。

 

「今日のレイドは最高だったな! このミノタウロスの角、いくらになるかな!」

 

「祝杯だ! 一番高い酒を持ってこい!」

 

 ホールの中心では、煌びやかな装備に身を包んだ高ランクと思しきパーティが、巨大なモンスターの素材を前に祝杯を挙げている。

 彼らの周りには仲間たちの笑い声と、羨望の眼差しが満ちていた。


 その華やかな光景を背に、翔はホールの隅を、まるで壁に溶け込むようにして換金カウンターへと向かう。

 両者の間には、目に見えない、しかし決して越えることのできない深い溝が横たわっていた。

 その光景は、残酷なまでにこの世界の格差を映し出している。


 換金カウンターに立つのは、鈴木愛と名札を付けた若い女性職員だった。

 綺麗に整えられた制服に、完璧なメイク。

 彼女は、泥まみれの翔がカウンターに置いた汚れた布袋を見て、ほんのわずかに眉をひそめた。


 だが、すぐに営業用の笑顔を貼り付けると、白い手袋をはめた指で、袋の中身を事務的にトレイの上にあけた。


 カラカラと乾いた音を立てて転がり出た、大小様々なクズ魔石の山。


「はい、お預かりします。……集計しますので、少々お待ちください」


 数分後、彼女は無感情な声で告げた。

 

「本日の買い取りは、合計で二万飛んで三百二十円になります。お疲れ様でした」


 二万三百二十円。

 四時間、命を削って稼いだ金額だ。

 翔は無言で差し出された現金を受け取ろうとした。

 その、時だった。


「よぉ! Fランクの『クズ石拾い』さんじゃないか!」


 背後から、わざとらしいほど大きな人を馬鹿にした声が響いた。

 翔が振り返ると、そこに立っていたのはEランクパーティのリーダー、間宮だった。


 ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた彼が、仲間二人を引き連れている。

 彼らの装備は、翔のものとは比べ物にならないほど上質で、磨き上げられた金属パーツがギルドの照明を反射して鈍い光を放っていた。

 間宮の指には、赤い宝石が埋め込まれた指輪が輝いている。


 間違いない。

 昼に健太が噂していた火属性のアーティファクトだ。


「今日も元気にゴミ拾いか? ご苦労なこったなァ!」


 翔は、この男を知っていた。

 以前にもダンジョン内で、「無属性は俺たちの邪魔にならないように、隅っこでゴミでも拾ってろ」と嘲笑してきた男だ。

 込み上げる不快感を押し殺し、翔は彼らを無視して立ち去ろうとした。


 関わるだけ無駄だ。

 時間の無駄、精神力の無駄。

 今の自分に、そんな余裕はない。


 だが、間宮はそんな翔の肩を乱暴に掴んだ。

 

「おいおい、無視かよ? 感じ悪いなぁ」

 

「……離せ」

 

「おーおー、見てみろよこのクズ石の山!」

 

 間宮はカウンターの上の魔石を指さし、仲間たちに聞こえるように叫んだ。

 

「ダンジョン潜って、たったこれっぽっちか? 笑わせるぜ! だから無属性はダメなんだよ!」


 その言葉に、翔の全身からスッと血の気が引いていくのが分かった。

 無視しなければ。

 ここで反応すれば、相手の思う壺だ。


 そう頭では理解しているのに、心臓が嫌な音を立てて脈打つ。


 間宮はそんな翔の葛藤を見透かしたように、下卑た笑みをさらに深くした。

 彼は近くのテーブルから、まだ中身が残っているビールジョッキと、食べかけの焼き鳥の串をひょいと掴んで戻ってきた。


「そうだ、お前みたいな貧乏人には恵んでやらないとな」


 そう言うと、食べかけの焼き鳥の串を、翔の目の前に突き出した。

 冷え切った鶏皮が、翔の鼻先でぶらぶらと揺れる。


「ほら、持ってけよ。お前の可愛い妹さんにでも食べさせてやれよ」


 その一言に、翔の思考が赤く染まった。


 間宮は、翔の動揺を愉しむように続けた。


「ああ、悪い悪い。お前の妹さん、確か病院で寝たきりだったっけなぁ? これじゃあ、食えねえかあ! ギャハハハ!」


 仲間たちの笑い声が響く中、間宮は持っていたビールジョッキを傾け、その中身を翔の頭上から浴びせかけた。


 ぬるくなったビールが、髪を伝い、顔を流れ、汚れた戦闘服に染み込んでいく。

 麦芽の匂いが鼻をついた。


「ほら、ドブネズミ臭せぇから、洗ってやるよ」


 ビールの雫が顎の先から滴り落ち、床に小さな染みを作る。

 その光景を、翔はただ呆然と見つめていた。


 今日の稼ぎは、二万三百二十円。


 妹の入院費には、まだ足りない。

 学費の支払いも、滞っている。


 それでも四時間、死の危険と隣り合わせで、泥にまみれ、神経をすり減らして稼いだ金だ。

 ゴミだと言われようと、クズ石だと罵られようと、それは今の自分と妹を繋ぐ、生命線だった。


 病と闘うたった一人の家族。

 美咲は、彼にとって何よりも大切な、守るべき存在だった。


 それら全てをこの男は土足で踏みにじった。


 ほんの少しの娯楽のために。

 ほんの少しの優越感のために。


 学費の督促状の赤い文字が脳裏をよぎる。

 妹の入院費の請求書が目の前をちらつく。

 英雄を称賛する無邪気な声が耳の奥で響く。

 選ばれし者たちの、傲慢な笑顔が瞼に焼き付いている。


 ――無属性のお前がいくら頑張ったって、無駄なんだよ!


 その言葉が、ビールの悪臭と床に落ちた焼き鳥と下品な笑い声と混じり合い、翔の心の最後の砦を粉々に打ち砕いた。


 翔の中で、何かがブツリと切れる音がした。


 思考が停止し、全身の血が沸騰するような感覚に襲われる。

 目の前が、真っ赤に染まった。


 気づいた時には、翔は無言のまま、間宮の胸倉に掴みかかっていた。


「なっ……この野郎!」

 

 一瞬驚いた間宮だったが、すぐにその顔を獰猛な笑みに歪めた。

 しかし、単純な怒りだけで、装備と人数の差が埋まるはずもなかった。

 翔が拳を振り上げるより早く、間宮の仲間が左右から翔の腕を掴み、体勢を崩させると床に叩きつけた。


 ガンッ、と後頭部を強打し、視界が揺れる。


「なめてんじゃねぇぞ! こら!」

「身の程を知りやがれ、無属性がァッ!」


 間宮の汚れたブーツが、倒れた翔の腹を容赦なく蹴り上げた。

 

「ぐっ……あ……!」

 

 息が詰まり、胃の内容物がせり上がってくる。

 仲間たちもそれに加わり、抵抗しようともがく翔の体を何度も、何度も殴り、蹴りつけた。


 鈍い打撃音が、それまで騒がしかったギルドホールに響き渡る。

 翔の口から漏れる苦悶の呻き声。


 周囲にいた他の探索者たちは、その光景をただ遠巻きに見ているだけだった。

 

「あーあ、無属性が絡まれてるぜ」

「間宮も相変わらずだな。弱い者いじめしか能がねえ」

「でも、逆らう方が悪いよな、Fランクのくせに」


 そんな囁き声と、抑えきれない嘲笑が聞こえてくる。

 中にはスマートフォンを取り出して、その光景を興味本位で撮影している者までいる。


 娯楽なのだ。


 ここでは力を持たざる者が、さらに力を持てる者に蹂躙される光景は、彼らにとって安全な場所から見物できる最高のエンターテイメントでしかなかった。


 翔は霞む視界の片隅で、換金カウンターの職員を見た。

 彼女は、面倒事に関わりたくないと言わんばかりにサッと目を逸らし、何事もなかったかのように他の書類を整理するふりをしている。

 規則上は止めなければならないはずだ。


 だが、このギルドにそれなりの金を落とすEランクパーティを敵に回すリスクを考え、見て見ぬふりを決め込んでいるのだ。


 誰一人として、助けてはくれない。

 誰一人として、手を差し伸べてはくれない。


 身体中を駆け巡る激しい痛み。

 だが、それ以上に翔の心を支配していたのは、圧倒的なまでの屈辱と、底なしの無力感だった。


 これが、この世界の現実。

 これが、【無属性】の自分に向けられる扱いなのだ。


 骨の髄まで、魂の芯まで、その事実を思い知らされながら、及川翔は悔しさのあまり歯ぎしりをした。




 「そのくらいにしたらどうです?」




 凛とした声が響いた。

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