私が、全部忘れさせてあげる
水谷さんは私の手を掴んだまま、ずんずんと進んでいく。
「吉田さんの家ってこっちだったよね?」
私の顔すら見ずに歩いていって。指先のボンヤリとした温もりだけが、わたしを繋ぎ止めている。
「……どういうつもり?」
繋がれた手を勢いよく振り解く。
家に帰るだけなら1人でも出来る。わたしは誰かの助けなんて求めてない。
それなのに……
「吉田さん1人じゃ不安でしょ?」
目の前に立つ水谷さんは、くるりと私の方を向いて、やんわりと笑いかけてくる。
「不安じゃない。余計なお世話だよ」
「私たち恋人じゃん。余生なお世話くらいさせてよ」
彼女は、時に酷く強引だ。
こっちの都合なんて考えずに、自分のことを優先させてくる。
多分、私たちは根本的に分かり合えない。
水谷さんは優秀だ。美人だし成績も良い。先生からは信頼されているし友達だって沢山いる。
自分のしたいことが自由に出来る。したいことが肯定される環境に生きている。
彼女の未来は、希望に満ち溢れている。
そんな人が、私のことを理解出来るんだろうか。返ってくるのは、傍観者視点の同情でしかないんじゃないか。
だから、彼女には見せたくない。
これ以上、私を。
見せたら、きっと今までのようには居られなくなる、気がする。
元々、成り行きで付き合い始めた仲だ。
いずれは離れ離れになる。
水谷さんだって、本気で私のことなんて好きじゃないだろうし。
だったら、変に踏み込ませるべきじゃない。
何より、知られて拒絶されたくない。
立ち尽くす私を、水谷さんはそっと見つめる。
降り注ぐ雨の音だけが鼓膜を揺らしていた。
「私だけは、吉田さんを受け止められるよ」
バシャリ。彼女の手から傘が落ちる。
彼女は私のそばに。そうして、私の身体に人肌が触れる。
「………っ!!」
咄嗟に、身体が動いていた。
気づけば、彼女の身体を思いっきり押していた。わたしは彼女の抱擁を拒んでいた。
「辞めて……辞めて……」
傘をさしている。小さな傘だ。
だから取り逃がした雨が私の肩や足に飛び跳ねている。
雫は私の身体を密かに蝕んでいた。それは、ずっと生まれた時からだったのかもしれないし──お母さんが居なくなった時からかもしれない。
水谷さんは自分の傘を手放した。
それは、とても大きな傘に見えた。
彼女はずぶ濡れで、肩からは雨粒が流れ落ちていた。
私は濡れていて、彼女も、私の為に濡れ、濡れても良いから私の傘に入ることを選んだ。
なのに、わたしはそれを拒んだんだ。
「あ…………」
私は、水谷さんを拒絶した。
それは、私を守るためで。でも、それは時として他人を傷つけることもあるんだと。
今更ながらに気づいた。
「寒く、なってきたね」
「…………うん」
水谷さんはにへら、と笑っていた。
水の雫が頬に垂れていた。
わたしは衝動的に水谷さんの手を繋いでみせた。
一つの小さな傘の中で、身を寄せ合いながら私の家に向かった。
水谷さんと手を繋ぎながら、私は家へと着いた。鍵を回して扉を開けると、見慣れた暗闇の廊下が私たちを出迎える。
一つの靴も並んでいない玄関。
そこに置かれた私と水谷さんの靴。
今よりも強く、水谷さんの手を握る。
ジワリと彼女の熱が移って、言いようのない不安が少しだけマシになった。
「……ただいま」
「お邪魔します」
水谷さんは、玄関に飾られた置物や写真を一瞥だけする。写真には、幸せそうな3人の家族が写っていて。
「…あんまり、見ないで」
やっぱり、どうしても見せたくない。
私にとって、それは認めたくない過去で、
耐え難い、そして2度と戻らない過去だから。
「うん。見ないよ」
一言だけ、そう言った水谷さんはこれ以上余計な詮索はしてこない。踏み込まないように私のことを考えてくれたことが今は有り難いと思った。
濡れた鞄は脱衣所へと放り出して、私たちは2階の自室へと入った。
雨に打たれたせいでお互いの制服が透けていて。下着を見られたくないのか、水谷さんは自分の肩を抱くように腕を回す。
…こんな事で恥ずかしがるなんて、水谷さんらしくもない。
「取り敢えず、お風呂入ろっか。吉田さんからで良いよ」
「でも、水谷さんも濡れて……」
「私は良いから。早く入ってきて」
食い下がるように水谷さんは呟く。
私は「分かった」とだけ言って脱衣所へと向かった。
そうして、私はシャワーを浴び、あがった後はいつもの桃色のパジャマに着替えた。
「水谷さん、次良いよ」
「…分かった」
部屋に戻ると水谷さんは自分の身体を抱え込んで震えていた。よっぽど寒いんだろう、そう思うと胸がちくりと傷む。
水谷さんがシャワーを浴びている途中、わたしは彼女用の私服を取り出す。
ろくな私服は無いので、白のTシャツに黒のショートパンツを選んだ。
「水谷さん、これ置いとくから」
脱衣所に部屋着を置いて曇りガラスのドアにそう呼び掛ける。
水谷さんからの返事は無かった。
サーッ、とシャワーヘッドが温水を吐き出す音だけが響いていた。
「水谷さん…?」
いつもみたいな明るい声が聞こえない。
不思議に思って、私は浴室の扉へと近づいていく。
「…っ…あ、げほっ……っ」
向こう側から、嗚咽のような音がした。
何か、嫌な空気が流れていた。
扉越しに、蹲る水谷さんの姿が見えた。
「水谷さん……!?」
「っぁ……よしだ、さん………?」
ぶるっと私の指先が震え、シャワーを浴びたばかりなのに意識が冷えていく。
ボンヤリとしか分からないけれど、その姿はひどく弱っていた。
「大丈夫!?」
「……大丈夫だから、吉田さん部屋戻ってて」
扉の取手に手を掛ける直前、中から覚めるような声が聞こえてくる。
「……分かっ、た」
水谷さん、水谷さん……?
いつも余裕があって、私の上をいってる感じで、それで優しくて、強引だけど私のこと考えてくれて。
でも、今だけは──水谷さんが水谷さんじゃないみたいだった。
部屋の中で水谷さんを待つ。
スマホの電源をつけては、ホーム画面をただ見つめて、再び電源を消す。
何か、異変を見たみたいだった。
水谷さんの新たな一面?いや、それだけじゃ言い表せない。
考えがまとまらない、その時、
部屋の扉がガチャッと開いて水谷さんが入ってきた。
「ごめん、さっきのことは気にしなくて良いよ。なんでもないから」
気丈に振る舞う水谷さん。
顔色も、表情もいつもと変わらない。
なのに、さっき見た違和感が拭いきれない。
「水谷さん、……ほんとに大丈夫なの?」
「うん。……それより、玄関に写真あったよね。あれ、家族のやつ?」
写真、のこと……?
何で急にそんなこと言い始めたの……?
水谷さんはにっこりと笑みを浮かべる。
そして、ベッドに腰掛ける私の隣に座った。
「だったら、なに?」
「いや、すんごい幸せそうだなーって、そう思っただけだよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
幸せ、………幸せ?私が?
何言ってるんだろう、この人は。
私は、私たちは。絶対、幸せなんかじゃなかった。
それなのに、水谷さんは……
「…嫌味のつもり?」
「昔のこと、そんなに触れられたくないの?」
薄ら笑いを浮かべる水谷さん。
まるで、私のことを馬鹿にしてるみたいに。
「……だったら?」
探るように絞り出した声。
その瞬間──水谷さんの手が、私の手に触れた。
身体を寄せて、一気に私たちの距離が縮まる。
「私なら、全部受け止められるよ」
目の前の、焦茶の瞳が私に囁き掛ける。
真っ直ぐな瞳を向けられて。
私は思わず視線を逸らす。
すると、身体に何かが寄りかかってきて。
気づくと、わたしは水谷さんに押し倒されていた。
重なるほどに近くなった瞳。
水気を帯びた唇と、腰辺りに感じる柔らかい臀部の感触。
「いきなり、なに」
慈愛のような表情に、緊縛した心臓が落ち着きを取り戻していく。
「私が、吉田さんの嫌なこと、辛いこと──
全部忘れさせあげる」
彼女が、何を思っているのか。彼女が抱えているものは何なのか。彼女は何故私を受け入れてくれるのか。
濁流のように押し寄せる疑問の中で。
今から何が起こるのか。
経験則から、それだけが分かった。
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