第27話

 今朝は特別に空気が冷えていた。


 2学期に入って9月が終わるころ、残暑の季節も終わりを迎えてきた。

 ジリジリと肌を焼く嫌な季節も終わってくれて、少し気が楽。


 ただ風が強い。


 ブレザーのポケットに手を入れて寒さから身を守りながら灼を待っているけれど、灼はそんな防御姿勢の私を見つけられるかな……?


 電車の関係で待ち合わせはいつも私が待っているけれど、それまで寒さに耐えられるかな。


 タイツを履いてくるんだったな。と後悔していると、灼もいつも通りやってきた。


 いつもはシャツにスカートだから、厚着をして少しシルエットの大きい灼は新鮮で少し気づくのが遅れた。


「聖、おはよう」

「灼、おはよう。寒いね」


「うん、夏も終わりだね」

「急に秋じゃんね」


 なにか、お互い探るような雰囲気だった。

 歩きながら、とりとめもない会話をする。

 目に入ったものや、歩くペース、気候の変化。


 昨日揉めたことを思い出さないように、丁寧に地雷を避けながら話す。

 私はもう灼といつでも話をするつもりだけど、灼はまだ分からない。


 放課後がいいって言うし、それまでなんか気まずい感じになるけど我慢しよう。


 ただ流石に昨日のことがあると、手を繋ぐことはなかった。

 お互いに勇気が出ない。


 私から握った方がいいのかな。

 ポケットの中で手をグーパーさせていると、きっかけは灼の方から唐突に切り出された。


「あのさ、話ってなに……?」


 灼は歩きながら間を持たせて言葉にした。

 こちらに視線を合わせず、まるでこれも何気ない日常会話だと強く言い含めるようなトーンで。


「今……いいの?」


 私は立ち止まる。

 灼も少し遅れて立ち止まって、こちらを振り返った。


「うん。いい。なんとなく……予想してた話と違う気がするから」


 予想……? 何を想像していたのかよく分からないけど、私はとりあえず息をいっぱい吸って、気持ちを落ち着けて灼の目を見て口を動かす。


「……お勧めしてくれた本、読んだよ」


 これで……伝わってほしい。

 私だって一から十まで全部言うより、行動で伝えたい。


 すると、そんな心配も杞憂で灼の目を丸くなり、口が空いたままこちらを見つめていた。


「————っ!」


 言葉を返してこなくてもわかる。


 伝わったようだ。


 いくら気持ちの起伏が穏やかな灼でも、こればかり顔を見ればわかる。

 いつも驚いたり、意外そうな顔をしてる時はしっかり分かりやすいんだ。


 灼も振り幅こそ少なかれ、顔を見ればなんとなく感情はわかる。


「……そうなんだ。どうだった?」


 落ち着いたように息を吐いた灼は、全てが察したようにこちらを見て笑っていた。

 声に安心がこもっていて、小さい肩から力が抜けている。


「良い話だった。感動したよ」

「具体的にはどこに感動した?」


「んー、主人公がヒロインの行動で示す愛に気づいた名場面」

「……名場面って、自分で言う?」


 私が本の主人公に自分を投影したことを、当たり前のように見抜いて灼は笑った。


「灼が言わせたんでしょ」


 彼女の顔は力が抜けていつもの水を含んだような笑顔になっている。


 灼も私と同じ感想を抱いたようだ。


「良かった……伝わって」


 心底安心したようで、彼女は胸を撫で下ろした。


 まぁそれもそうだ。

 あの本を紹介されて灼からあそこまで尽くされたら、誰しもヒロインをトレースしてると分かる。


「にしても分かりにくいね。灼は」

「口で伝えると綺麗すぎて、作り物に聞こえてもおかしくないから、信じてもらうきっかけとして読んで欲しかった。こういう形もあるんだって」


 灼は「それに初めて読んだ時、こんな形が素敵だと思った」と笑って付け加えた。


 元々尽くすタイプだったのか、私にプロポーズされた時にそうしようと思ったのかは分からない。


 けどそんなことは今更どうでもいい。


 なにより一番大事なことが分かったのだから。


「うん。灼が私のことを大好きだって気づけた。勧めてくれてありがとう」

「ふふっ、気付くのが遅いよ。あれだけ尽くしたのに、都合よく関係に浸ってた女の子はどっち?」

「……私だ」


 少し、恥ずかしくなって笑う。


 言われればそりゃそうだ。

 灼はあれだけ私の心地よくなる言葉をくれたし、夫婦であるためにルールをずっと守ってた。


 挨拶だって、愛情表現だって、全部灼からやってた。


 それに私だって灼を自分の運命の相手として都合よく解釈していた。


 こういうズレって夫婦ではよくあるものだったりするのかな。


 今更というか早々にというか、夫婦喧嘩の必要性を理解した。


「だからさ……ごめんなさい。灼がこんなに考えてくれたことに気付かなくて」


 私は崩した笑顔を整え、真剣に灼を見て頭を下げた。


 ただ灼は全く気にする様子もなくこちらへ歩み寄った。


「全然いいよ」

「でも……私、灼に酷いこと言ったから」

「だからいいよ。言ったでしょ? 私から離婚はないって。聖が好きでいてくれてるなら怖くないよ。私もごめんなさい」


 昨日は最後まで言えなかったから。と灼は続ける。


 そして私に言葉を挟ませないように、視線で強く「聞いて」と伝えてくる。


「聖のプロポーズはね、男避け出来るし都合が良かったのは事実。でも都合だけ考えるなら適当な理由をつけて別れてもよかったんだ。けどそれをしなかったのは聖だからだよ」


 灼はスゥッと息を吸って笑って見せた。


「聖が本気で私と一緒にいてくれて、感性違うのになんか楽しくて、そんな日々をこれからもずっと過ごしていたかった」


 だから……私からの離婚はありえない。と強く付け足した。


「聖から離婚って言われない限りは怖くないよ」


 灼はそう言いながらこちらは手を伸ばした。


 地面へ下ろした視界に灼の指先が入る。

 温かい声とこちらの手を握る指先は少し震えていて、とても熱い。


「ありがとう、許してくれて」

「最初から別に怒ってないよ」


「……でもさ、なんでそんなに好きでいてくれるの? それだけは言葉で聞きたい。私に気を遣わなくていいから、本心で答えて。都合がいいだけでそんな風には出来ないと思う」


 すると灼は目を丸くして口を開いた。


「そんな簡単なこと……? 聖が私を好きでいてくれるのが分かるからだよ。嬉しくて、応えたいから。そうすると、もっと好きになる」


 その瞬間に、涙腺に熱が走った。

 滲む涙で、視界の輪郭が少しぼやけるのを指で拭う。


「どうしたの……?」

「自分が恥ずかしい……灼の気持ちにひとつひとつ気付くとさ、重みが違うし」


「そっか、うん。気付いてもらったならなによりだよ」


 そして灼は握った手をそのままに、もはや定位置となりつつある左隣に立って、上目遣いでこちらを見上げた。


 眼鏡のフレームを避けてこちらと視線が交わる。


 すると灼は少しいじらしい笑みを浮かべる。


「よし、じゃあ何か言うこと聞いてもらわなきゃね。今回は聖の過失だし」

「えっ、なんで?」


「決めたでしょ? ルールを破ったら言うことを聞くって。ルールも忘れちゃった?」


 少しばかり逡巡して、思い出す


「……あっ」


 ルール『仲直りはその日のうちに』


「うん……じゃあ何してもらおうかな」


 灼はズイとこちらに顔を近づける。

 その綺麗な瞳に吸い込まれる。


「男じゃないから良いって言うのは本音。でも聖ならいいかって言うのは言葉が違ったね」

「————っ!」


 灼は眼鏡を外して、私の体を引き寄せるのではなく彼女の方から体を寄せてくる。

 足の間に灼の細い足が入り、スカートの生地がふとももの形を浮かばせる。


 視線の下から腕が肩から首に回る。


 私の体が灼に触れて、温かい息が感じられるほどに距離が近づく。


「聖じゃないと嫌。ただ……」


 ただ、近づくまでで距離が止まった。

 唇は重なる寸前で止まっている。


「本当はキスとかも、苦手なんだよ。動物の本能が私の人格を上書きするみたいで……」


 灼は少し目を細めていた。

 灼は負けず嫌いで、考えとかを誘導されることが好きじゃないと言っていた。

 こんなところでもそんな風に考えているんだと、目を見ながら思った。


「そうなんだ」


 私の視界が灼で埋まっている。

 もう唇は触れているのかも分からないけれど、動くならまだ触れていない。


 彼女の体温を体のあちこちから感じている。


 灼の綺麗な顔はどれだけ近づいても綺麗で、見惚れてしまう。


 けれど、重なってはいない。

 その距離を壊したいけど、それを壊そうとしてるのは灼の勇気だから、目を瞑って私は待つ。


「怖いなら、待ってあげる」


「怖いわけじゃない……そんな自分が嫌いなだけ」


 いや、多分怖いんだよ。

 そういう一面が嫌いとか、動物に見えたとか。


 色々言ってるけど、自分が軽蔑してる存在と同じ枠組になってしまう。

 そしたら自分も軽蔑されるかもって怖くなってるんだ


「私はそれでも……灼が好きだよ」


 色素の薄い青鈍色の瞳を見つめて、私は灼の勇気を後押しする。


「愛してるって言ってくれるだけじゃなくてさ。キスしてくれたり、そっちの方が私は嬉しいよ」

「……っ!」


 彼女の透き通るような瞳が揺れる。


「聖、ありがとう」


 そして……灼の唇に呼吸を塞がれた。



 キスした後の空気感がむず痒くて、少しだけ沈黙の時間が生まれた。

 けれど、そうやって至近距離で見つめ合っていると灼が笑った口を開く。


「結婚式もまだなのにキスしちゃったね」


 そんなことを言って、誤魔化すように眼鏡をかけて視線を逸らした。

 彼女自身もすごい照れてるみたいだった。


「キリスト教じゃないし、まぁいいでしょ」

「でもキリスト教は性交渉がアウトだから、あっでもキスも慎むべきだったりするとか……」


 あーあーまた出てきた。

 はいはい、と打ち切って私も灼に伝える。


「あのさ、私からもお願いがあるんだけど」

「私はルール破りしてないけど」


「よく考えたら昨日は1人で帰るって灼が言ったんだよ。仲直りのタイミング無いじゃん」

「確かに……そうだね。失念してた」

「これでおあいこじゃん? だから私からもお願いをします」


 灼は納得の意思を、顔を綻ばせた笑みで返してくる。


「と言っても、ルール破りしてなくてもお願いしたら聞いてくれるでしょ。灼なら」

「都合のいい女扱いだ。いいよ、なに?」


「お母さんに会ってほしい。紹介したいから」

「……」


 灼はまた「お母さん」という単語に眉根を寄せて押し黙った。

 一瞬だけ口を引き結び、そして少しの沈黙を挟んで口を開く。


「……分かった。挨拶するんだよね」

「うん、紹介したいから」


 灼をお母さんに紹介する。

 私と灼の関係を、何も知らないお母さんにも認めてもらう。


 そうすれば私たちの関係は2人だけのものじゃなくなる。


 別にお互いにそうじゃなきゃいけないってことはないけど、一緒にいる。


 むしろそっちの方が運命なのでは?


「あ、あとこれはついでだけど眼鏡もさ、これからは外して」

「……? 一応聞くけど、なんで?」


 灼は眼鏡に手をかけ、外そうとする動作の途中でこちらを見た。


「そっちの方が可愛いから。お母さんだけじゃなくて、灼を見る全員にこんな可愛い子が私のお嫁さんですって言う」

「……っ! いいね、分かった。男が寄ってきても『もう結婚してます』で逃げる」


 ベーっと軽く舌を見せて「そう言ってやる」と笑った。


「それいいね。私も言うよ『誰の女に手を出しとんじゃ』って」

「それいつの時代……?」


 お互いに吹き出して笑う。

 すっきりと、心の中にあるつっかえがドンドン肺から抜けていく。


 そして、灼は眼鏡を外した。


「じゃあ改めて。不束者ですが、よろしくお願いします。聖」

「うん。こちらこそ不束者ですがお願いします。灼」


 手を握って、深く息を吸う。

 そういえば灼は放課後が良かったらしいけど、朝は特になにか用事はなかったのだろうか。


「てかさ、なんで大事な話を放課後にしたかったの? 休みの前がいいとかいってたけど……」


「振られると思ったから……離婚話の後は授業どころじゃなくなっちゃうし、もっと言うと1日は休みほしい。だからだよ」


 気恥ずかしそうに唇を尖らせる灼。


 私の態度で離婚話ではないと気付いたらしい。

 淡々と理由を言っているものの、簡単にまとめると離婚したら傷つくからってことみたいだ。


 こういう素直で、普通で、私のことを好きでいてくれる灼が私は大好きだ。


「ねぇ……もう1回したいかも」

「聖のお母さんに会った後ならしてあげる」

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