第28話

 親に紹介する。灼と結婚するって決めた。

 だから来てほしい。


 それだけ伝えた。


 灼がそうするなら私だって行動で示す。

 後戻りする気はないって、あなたじゃないとダメ。


 こうしたらもう灼以外はありえないって外堀を埋めて示す。


 そのはずだったんだけど、少し問題が発生した。


「あのさ……やっぱ家じゃなきゃ、ダメかな」


 お母さんは紹介するのは了承してくれたけど、灼は少し怯えたような表情でこちらを見つめている。


 家まで来て欲しい。そう伝えたら渋ってはいたけど首を縦に振った灼。


 そんな感じで放課後、自宅までついてきたはいいものの、入り口で足を止めて手を引っ張られる。


「そりゃあ、家にお母さんいるから……」

「家は……少し……」


 ギリギリまで来たものの灼は頑なだった。


 人の家に入るのが嫌。

 前に同棲を提案した時はそう言っていた。


 けど、この頑なさは少し特殊なものに見える。


「灼……なにかあるの?」

「苦手なの。なんか……嫌でしょ。知らない人がズカズカ家に来るの」


 知らない人が家に入る。

 それを怖がる。


 私は頭の中で借金の取り立てが部屋に入り込むシーンを想像した。


 なにかそういう経験でもあるのか、灼は見たことないくらい目を泳がせている。


 でも、ここは超えてほしい。


 もう私は灼と一緒になるって決めたから。


 暮らした家や過ごした空間も見てほしい。

 私は灼のことを知りたいし、灼にも知ってほしい。


 灼は私を嫌わないって信じてるから、半ば強引に連れて行くつもりで手を強く握る。


 しかし灼はその場から動かない。


「ほら、今からどこかファミレスとかに呼び出せば……」


「灼、大丈夫だよ。お母さんにも紹介するって話してるし、灼のことを見たこともあるよ」

「いや、でも無理……! 家に入らなきゃいけないなら……別れる」


 強い言葉を投げられるけど、一貫して灼はこちらの目を見れていない。


 こっちを見て。と灼の視線の先に私は顔を持って行く。


「灼……嘘つくの?」


 そして、その言葉に力の入った瞼が震えた。


「……なにが?」


「私から切り出さない限り離婚はないんでしょ? あれは嘘?」

「……」


「夫婦のルールで決めたよね? 嘘はつかないって。じゃあ言うこと聞いてもらうけど。一緒にウチに来て」


 その怖がってる心の奥底、その水面を揺らすように語りかけるように伝えた。


 一瞬目をギュッと瞑った灼は、ゆっくりとこちらの目を見返して、静かに声を漏らした。


「……分かった」


 そんな怖いのかな。と思いながら私は答えるように手を握る力を強める。


「大丈夫、手握っててあげる」


 すると、灼の手にじんわりと入っていた不要な力がスッと抜けた。


 灼が息をすぅと吸ったのを確認して、私は玄関のドアを開けた。


「おかあさーん。ただいまー」


 声をかけても返事がない。


 ただ靴もキャリーバッグも玄関にあるからまだ家にいる。


 聞こえてないのかもしれない。


 私たちも靴を脱いでリビングへと足を進める。

 灼は俯きがちではあったけれど、不思議そうに廊下に飾られたインテリアを眺めつつ手を引かれていた。


 そりゃまぁ絵画とかあるし気になるかな。


「壁にかけてある絵はさ、お父さんの絵なんだよ。絵本作家だから」

「……そう、なんだ」


 お父さんにも灼をいつか紹介したいなと思いつつ、私はリビングのドアを開けた。


「お母さ……あっ」

「おかえり」


 するとお母さんは仁王立ちでこちらを待ち受けていた。


「いるんじゃん」

「交際相手はその子ね。お名前は?」


「陽鷹灼……です」

「あなた今日は眼鏡してないのね」


 少し驚いた様子で灼は上目遣いでお母さんを見つめた。


 そんな視線を躱してお母さんは腰に手を当てて私に向かって言葉を投げた。


「それで話って?」


 お母さんは分かっていることをあえて言葉にした。


「分かってるでしょ。私たちさ、結婚するよ。意思は変わらない」

「なるほど、陽鷹さんは? あたしは特にあなたと話したいのだけど」


「私は……」


 灼は目のやり場に困るといった様子で、顔を伏せたまま視線を泳がせている。


 何かを追及されているようにたじろいでいる。

 まだ灼の様子は少しだけおかしい。


 手を握る力がまた強まって、手のひらにじんわり汗が滲んでいる。


 2人で気持ちを決めたけれど、まだ心が落ち着かないようだった。


「灼、こっち見て」


 だから私は繋いでない方の手で、灼の小さな顔を顎から持ち上げ、こちらに無理やり視線を合わせる。


「私は灼が好きだよ。いきなり結婚だとか言い出す私について来てくれて、私の感じたものを正しいと思わせてくれるあなたが好き。結婚したい。てか結婚する。さっきも話したでしょ?」


 最初こそ「結婚するんだ」っていう直感から始まったけど、灼に出会っちゃったらそれ以外はありえない。


 誰との出会いを恋愛のゴールとするかは自分で決められる。


 なら私は灼にする。


 その気持ちをまっすぐと突き刺しにいく。


「私を動かす直感と感情が、灼と結婚したいって言ってるの」


「聖……」


 灼はその綺麗な顔をこちらに向けたまま口をぽかんと開けていた。


 そして数瞬のうちに口を閉じて、いつも眼鏡越しに見ていた切れ長の目を少しだけ細めていじらしく笑った。


 台風一過の空のように、穏やかな微笑みだった。


「ありがと。私もだよ」

「……それで? 本当に結婚する気なの?」


 そうやって見つめ合うとお母さんは言葉でそれを遮った。


「あぁお母さんすいません……あっお母さんでいいですか……?」

「……? まぁ好きにして」


 お母さんは少しずつ態度が堂々とし始めた灼を訝しんで、片眉を吊り上げて見つめた。


「はい……それで、結婚の話ですけど、するつもりですよ」


 辿々しくも、お母さんと視線を合わせたり外したりしながら言葉を繋いでいる。

 こちらの手が痛いほど強く握られる。


 玄関先でのやり取りでもそうなのか知らない家というのがよほど怖いのか、いつもの泰然とした感じじゃない。


「娘さんを、頂きたく……思ってます」

「そんな頂くなんて……」


 大きく出た灼にため息をついたお母さん。


 一方灼は話すたびに手をギュッと握っているのを考えると、緊張というより明確にお母さんに対して怯えているのが分かる。


 これはまた直感だけど、お母さんから私を奪ったように感じてるのかもしれない。


 またはそれに近い罪悪感を覚えてるのかも。


 抱える必要のない後ろめたさを、灼の声色からは妙に感じる。


「まぁそこはとりあえず置いておいて、あのね? 聖には聞いたけど、陽鷹さんには聞いてないから聞くけど、なんで聖なの?」


 お母さんは優しく諭すように言った。


「あなたくらい綺麗なら他に男の人もいるでしょう。少なくとも聖は同性愛者でも両性愛者でもなかったのよ」


「男の人は苦手ですし……なにより聖さんに、結婚を申し込まれたので……」


 言葉を選ぶというよりもゆっくり、少しずつ、調子をなんとか取り戻そうと灼は口を開いている。


 私もそれを見つめていた。


「あなたはプロポーズを受けられれば誰でもいいの?」

「……はい。正直、誰でも良かったです」


 どこまでも誠実な灼は素直に口にした。

 しかし彼女のその言葉によって少し緊張が走る。


「そんな軽い理由で聖を……」

「あのねお母さん、私は……」


「でも、その相手が聖で私は嬉しかったです」


 私のフォローを遮って灼は口にした。


 そして、その言葉を口にすると、強く握られた手の力がスッと自然に抜けて行く。


「聖が私に運命を感じてくれたことが、きっと私の人生において何よりの幸せです」


「ほら、灼もそう言ってくれてる」


「聖は少し黙ってて、この子と話すから。陽鷹さん、誰でも良かったって言っておいてずいぶん都合が良いわね」


「それはまぁ、凄い都合がいい展開ですよね。お金が欲しい時に宝くじが当たったみたいな」


 灼は懺悔するように自嘲した。

 でも言葉を漏らすたびに握った手から伝わる緊張は緩んでいく。


 落ち着いている。

 灼は言いたいことが言えてるんだ。


 私が手を握ってそばにいるから、安心してるのが伝わってくる。


 それに彼女の淡々とした物言いにお母さんは少し押され気味だ。

 強く整然とした母は顔を歪めて、どう言い伏せるかを考えている。


 やっぱり、灼のこの淡々と嘘をつかずに話す姿勢が私は好きだ。


 面白いし、なにより誠実。


 いつもの調子が戻ったことに安心する。


「宝くじってあなた、聖をなんだと思ってるの? お金目当て……!?」


「あぁ違います。ウチは親が医者なので決してお金とかじゃないですよ」

「……?」


 お母さんの眉が忙しく上下する。

 強く折り目をつけたような眉間のシワが言ってる。

 この子が読めない。どういう子なんだ。


 灼を測りあぐねている。


 というか灼の親って医者だったんだ。そういえば初めて聞いたかも。


 とか思いながら私はこのまま口を挟まず、灼に任せることにした。


 多分私の分の答えも、灼が言ってくれる。


「なにより、一緒に過ごして思ったんです。聖で良かったって。私は聖がいるから毎日が幸せです。あの時に聖から手を伸ばしてくれたから、今の私があるんです」


 そう。これが私たちの必然性。


 運命というのはビビッと来たとかそう言う物で始まる。


 私の求めていたそれは「この人と結婚する」って直感。


 ただ運命は千差万別なことに私は気付いた。


 偶然曲がり角でぶつかったでも、使ってるシャーペンが同じ色だったでも……


 どんなに単純なきっかけでも振り返ってみて「あれが運命の出会いだった」って思えれば、それが運命なんだ。


 私たちが一緒にいたいと思い続けて、これからもそうだと思うのなら、その運命の出会いはもう必然の出会いと言える。


 灼じゃないと、私は嫌だ。


「……一応聞くけど、同性婚が法律で認められてないことも分かってるわよね。世間の風当たりとか、辛いことがいっぱいあるかもしれない」


「はい、分かってます。調べました。日本ではパートナーシップ制度はあっても、結局法定相続権や配偶者控除なんかの法的な保障は受けられない」


 なんとか言い負かそうというお母さんの法律関係の口撃に対しても、なんなく返す灼。

 そこまで調べていたんだと感心する。


 やっぱり本気だった。


 こうやって灼の動きを見るだけで、彼女がいかに私との結婚を真剣に考えてくれたかが分かる。


「そこまで分かっていて……」

「それでも一緒にいたいんです……!」


 その言葉に、ついにお母さんも押し黙る。


「私は聖と……いや、正直これは……私の中の感覚でしかないから分かんなくて……パズルのピースみたいな、そういうやつです」


 そして灼が珍しく、言葉選びに苦心しながら抽象的なことを言った。


「灼……っ!」


 漠然とした言葉。


 ただ私にはそれが珍しいなという印象では収まらなかった。


 灼の中に私を感じた。


 私の中に灼がいて、理屈っぽく何かを考えちゃうのと同じ感覚を灼はきっと覚えている。


 灼の中にも私が根付いている。


「……私も、灼といたい」


 付け加えるように口にした。

 やっぱり灼は行動で示していた。


 嘘をつかないし、かなり細かく気を使う。


 だから色々とズレて聞こえたり感じてしまうことが多いけれど、行動の源泉を辿ればきっとそこには愛情があった。


 いつも彼女は挨拶する。

 元カレに迫られていた時も。


 そうやって夫婦のルールは絶対に破らないことも、常に私のそばにいてくれることも。


 好きじゃなきゃできないことをやってくれていた。


 やっと気づけた。


「お母さん言ってたよね。灼じゃなきゃいけない理由はないのかって。これが答え。私みたいなのがいきなりプロポーズしてもこれだけ向き合ってくれた」


 私は灼の手を強く握る。


「こんな人、他にいない……だから離したくない」

 

 困った様子で眉間に皺が寄っているお母さんに、私は強く力を込めて言葉にした。


 この直感は……正しいものだからと。


「……はぁ、分かったわ」


 すると、なにか大きなものを飲み込んだようなため息と共に、お母さんは肩を落とした。


「そこまで固めてるなら……もう仕方ないわね」

「本当に?」


 いいの? 灼と顔を見合わせる。


「えぇ、こうなったらもうお互い平行線だものね。そうなったらこちらが譲るしかないわね」


 娘を信じる親として。お母さんはそう付け足すと、少しだけ口角があがった。


「陽鷹さんも聖をよろしくね。ウチの子、お父さんに似て自由人な感覚派だから、無茶するかもしれないけど支えてあげて」


「はい、自由で感覚派なのはこれまででも十分伝わりました」


「いや、てか自由にしたのはお母さんじゃん、両親どっちも家にいないなら自分の感覚を信じるしかないもん」


 お母さんが少し気にしてることをわざとぶつける。

 最初に灼との結婚について追い込まれた仕返し。


「ごめんなさいね……」

「いいよ。そのおかげで灼とも出会えたし」

「うん。だから任せてください」


「えぇそうね……。まぁこれだけ口が立つならそれなりに上手くやるでしょう」


 根負けした。という様子で何度もため息をついて、お母さんは整理をつけたように私たちを見た。


「それじゃあ陽鷹灼さん。うちの聖をよろしくお願いします。幸せにしてあげてね」

「はい、もちろん。身を尽くして聖を幸せにします」


 灼は笑って見せた。


 聖もね。とそう伝えるように灼の目を見つめたあと、こちらにも柔らかい視線を送った。


 ……お母さんはきっと、わざと強く言ったのかもしれない。


 あれだけ自由を尊重してくれたお母さんなのだから、きっと理由がある。

 それはきっと、間違うことの許されない重い選択だから覚悟を確かめたかったのだろう。


 成り行きでは許されない。

 お母さんも突然お父さんからプロポーズを受けた時、そんな覚悟をしたのかも。


 先ほどまでの強硬な姿勢は、娘の幸せを願う母としての役割だったんだ。


 私はそう思う。


「もう本当に……まぁ話って言われたら覚悟はしてたけど、行く前にここまでハッキリと言われると疲れちゃうわね」


「ごめん」


「いいわ。それじゃあ私、フライトがあるから行くわね」

「うん、気を付けてね」


 背中を向けて手を振りながら、カッコよくリビングから出ていくお母さん。

 なんか心なしか満足げで足取りも軽く見える。


 そしてそれを私と一緒に見届けた灼がさらに手を強く握った。


 ……あっそうだ。


 その姿と灼の手の感触で思い出した。

 伝えたいことがまだあった。


「あっそうだお母さん、この家で灼と同棲していい? いいよね?」

「「えっ?」」


 お母さんの背中に私たちを通り過ぎて玄関に向かったお母さんが振り向いて、隣の灼と驚きの声をハモらせた。


「えっ? 聖?」

「いいよね灼。一緒に住もうよ」


「いや……えっと、だから……」

「ちょっと聖? いきなり何を言い出すの?」


 灼が戸惑っているのに加えお母さんも追撃する。

 リビングから玄関へ行くかと思いきや、少しバックしてこちらを向く。


 お母さんは焦ったり怒ったりというより「何を言ってるのかわかってる?」といった訝しげな表情を向けていた。


「灼と一緒に住みたい。いいでしょ? お母さんたちは家にいないこと多いし、綺麗にするから」


「いやいきなりそんな……陽鷹さんの家は? 高校生だけで生活なんて————」

「あっ私の家は多分大丈夫です……ですけど、あの、聖?」


 お母さんの言葉を一蹴して、先ほどの家に入る前と同じくらい焦った顔をしてこちらの肩を掴む灼。


 首を横に振ってる。


 ……口を引き結んでこちらに何かを訴えている。


 可愛い。


「私は灼と一緒にいたいしさ」

「でも……お母さんに悪いかも……」


「まぁ変なことして汚したりしなければ別にいいわよ。ただ聖、あなた突然思いついたでしょ。陽鷹さんとしっかり相談して決めなさい」


 はぁと肩を落としながらもお母さんはため息混じりに口にする。

 もう勝手にしなさいと言わんばかりなのかもしれない。


「ほら、お母さんから許可出たよ。灼、無許可じゃない、ズカズカ入るわけじゃないよ」

「でも……」


「まぁ親としてこんなこというのも恥ずかしいけど、この家は聖が一番長く暮らしているだろうし聖がいいって言うなら自由にして」

「えっ……!?」


 諦めたような微笑みを灼に向けてお母さんは言った。

 ただ当人はどうしたら良いかわからないみたいで「えっ」とか「でも」とか、珍しく言葉を泳がせている。


 私はそんな灼の背中をさすって、普段は灼がやってるように下から顔を覗き見た。


「ほら、灼は怖がってるみたいだけどさ。少なくとも空井家はいいって言ってるから、おいでよ」

「……」


 上目遣いになりながら困った様子でこちらを見る灼は、いつもの飄々淡々としてる様子とは全然違う。


 たまに視線が泳ぐ。

 怖がるように、縋るものを探しているようだった。


 やっぱりここにも、灼の中の触れたほうがいい部分がある気がした。

 だからそんなつもりはなかったけど、今思いついた同棲を提案した。


 なんとなく。ただなんとなくの直感。


 灼のこの人間らしい部分を優しく受け止めて、居場所を作ってあげる必要がある……気がした。


 困ってる人がいたら助けなきゃ。と思うのと同じように、そうしてあげたほうがいいと思った。


 ただ灼は背中を押して欲しそうだった。

 どうしても、そうしなければ前を進めないんじゃないか。


 私はなんとなくそう思った。お嫁さんとしてパートナーへの勘かもしれない。

 だからとにかく思いつくままに口を動かした。


「夫婦としてさ、一緒に住もうよ。家族になろう? 2人で、同じ場所で一緒に年を取ろうよ」


 怖いのはきっと他人の家だから。

 他人の居場所に踏み込むのが怖いと言っていた。


 なら口で夫婦と決めるだけじゃなくて、一緒に住めばいい。

 そうすればここは灼の居場所になるんだから。


「……っ!」


 そう伝えると灼は力のこもった視線を向けただけで、何も言わなかった。

 そしてその細い体を震わせながらなにかを決心したように、ただ首を縦に振った。


 振ったけれど、伏せた顔は上がってくることはない。

 視線を下ろすと、灼の足元にポタポタと何か水が垂れていた。


「灼……!?」


 彼女の肩を支えて、どうしたのか顔を見ようとすると灼は首を横に振ってこちらに見せないよう顔を避ける


「どうしたの……?」


「……後は任せたわ。あたしは飛行機あるし行くから。もう一度言うけど、2人だからってあまり汚さないようにね」


 そんな私の背中越しにお母さんは「行ってきます」とだけ言い残した。


「行ってらっしゃい……って、あっ! ちょっと! お母さん!」

「幸せな写真、送りなさいねー」


 そしてそんな明るい声色とともに、バタりと玄関の扉が閉まる。


「行っちゃった……」


 灼の方へ向き直ると、彼女は顔を上げていた。

 顔を上げてもボロボロと、涙を溢しながら。


「灼……?」

「ごめん……止まらないや……」


 灼は溢れる涙を手のひらで押さえつけながら笑う。


 本来の整った顔を忘れるほど、彼女の顔はグシャグシャになっている。


 手の甲で涙を拭っても、花弁のように白くきめ細やかな肌の上で光を煌めかせる涙は、今の彼女の感情を表すように溢れ続けていた。


「あぁ……本当に……。うん、無理だ……」


 瞼を赤くして、スッキリした様子でそう言っている。


 それにつられて、私も涙腺が熱くなる。


 そして、こちらがどう言葉にするか考えていると灼は言葉を続けた。


「私、聖にプロポーズされて本当に良かった」


 そうやって涙を拭いながら向けた表情は、屈託のない笑顔だった。


 普段の淑やかさよりも年相応の幼さが見える、ただ嬉しさをこちらに表明するような明るい笑顔に、私の顔もつられて緩んでしまう。


「私も、灼が運命の人でよかったよ」

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