第26話

 久しぶりの1人の放課後。


 空を見るたびに雲が厚くて灰色だなと思う。

 それが新鮮に見えた。


 ここ最近はいつも意識は隣に向いていたから、妙に視野が広く感じていて左手の感覚もどこか寂しい。


「見てあげなよ。見れば分かると思うけど」


 梨々香の言葉が反響して頭に響く。


 言葉以外の部分を見つめようと思えども、今ひとつピンと来ない。


 灼は基本的にものぐさで、スマホの文字入力に苦戦するくらい不器用。


 でも料理は上手だった。


 ……あれ、やっぱり器用なのかな。


「ふふっ」


 少し笑えてくる。灼ってよく分かんない。


 ずっと灼のことを考えていたし、見ていたと思うんだけどな。


 灼は表情の起伏に乏しいから考えてることはわからない。

 それは彼女も理解してるから、口が上手いし言葉を尽くして説明してくれる。


 その説明が私の感覚とズレていたのが問題で、だから灼の気質や考え方に繋がらない部分から灼を知ろうと思ったわけだけど。


「んー……分かんないな」


 ハァと溜め息をつきながら左手をグーパーと開いたり閉じたりしても、あの柔らかくてスベスベな感覚はない。


 けど、未だにハッキリとあの感触を思い出せる。


 結局私の中の感覚は、疑うまでもなく灼を当たり前に隣にいるものと決定してる。


「……もっと知らなきゃか」


 灼の口からじゃないところから、本当の気持ちを知る必要がある。


 灼に教えてと言えば教えてくれると思うけれど、それじゃ意味がない。


 結局私側でもバイアスをかけてしまってる。


 疑いようのない灼の気持ちを、私が見つけないといけないんだ。


 話すと取り繕ってるように見えるなら、それ以外のとこから私が見出そう。


 私は灼が開示してる以上のことを知らないから。


 自分で決める。


 あなたは私の運命の人だと決めた。だから一緒にいようって言う。


 けどそれは本当に灼が私のことを好きだと思ってくれていると確信できた時。

 つまり、必然性が生まれた時。


 私が灼じゃなきゃいけない。灼も私じゃないといけないと思えた時が再生の時だ。


「とはいえ……分かんない」


 灼なんて理屈人間のどこを見て感情を読み取ればいいのか。

 灼は言葉を選ぶ。


 あの時の本音を聞く限り、選ぶなと言われない限りは私の心地よくなる言葉を選んでいたに違いない。


 それがまた切ない。


 特に「都合がよかったのは否定しない」なんて言われたら、全てが計算の可能性で溢れてて何を信じたらいいのか……。


 ぼけぼけと考えながら帰宅した。

 何も思いつかない。


 お母さんは帰ってきてない、まだどこかで打ち合わせかも。


 まぁ灼のことでまた何か聞かれるよりかはマシかな。

 とか思いながら部屋を見回す。


 そういえば灼って他所の家に入るのは嫌だって言ってたっけ。


 そういえば唯一の拒絶だった。


 最初に同棲を断られた後も、何度か家デートを提案したけど「それだけは勘弁して」とハッキリ言ってた。


 なんで……?

 

 知らない人のテリトリーを荒らしてるみたいで嫌とは言ってたけど、そんな?

 

 潔癖のきらいがある人が他人の家に行かないのは分かるんだけど、虫を食べてみたいとか言い出す灼がそんなことを考えてるとは思えない。


 ダメだ。拒絶からは愛なんて読み取れるはずもない。


「分かんない……あーもう! 灼のバカっ! ……痛っ!」


 答えが出なくて、とうとう嫌になってベッドに飛び込む。

 するとコツンと頭に何かが当たった。


「この本……」


 ハードカバーの小説。

 灼のおすすめしてくれた本だった。


 そういえば読もう読もうと毎回開くけど、字の多さに目が回って読めていない。

 灼はおすすめした漫画を最新刊まで買ってくれていたのに、少し情けない。


 タイトルを読んでもカバーのイラストも何も分からない。


 ハードルが高いんだよなぁ。

 あ、でも、そういえば……。


 この本を買った時のことを思い出した。


「私がどれだけ聖を大切にしてるか分かると思うから、読んでみて」


 そんなことを灼は言ってた。


 この本で何か分かるのかな……?


「うっわー……やっぱり文字しかない」


 パラパラとめくってみたら、綺麗に整頓された文字がびっしりと並んでいる。


 何度開いてもこれは目が回りそう。


 これはなかなか勇気がいる。


「とりあえずお風呂入ろう」


 うん、少しばかり後回し。


 こういうのは気合が大事だし、文庫本よりハードカバーの小説はボリュームが多く感じる。


 とにもかくにも、身体を休めないとね。


 なにより灼の感情がここに眠ってるかなんてのは考えづらいけど。


 それは読んでみないと分からない。


⭐︎


 何時間が経っただろう。

 いや、計算するのも億劫になる。


 お風呂に入ってリフレッシュして、早速本を読んだわけだけど、こんな時間になってしまった。



 完全に寝てない。

 というかご飯すらも食べてない。


 物語が面白かったのもあるけど、灼の気持ち見つかれーって気持ちで読み込んだから、想像以上に入り込んでしまった。


 それに灼の語彙の源泉でもあるし、難しい言葉もスマホで調べたら時間もかかった。


「今何時だ……これ」


 なんか外が明るいと思ってカーテンを開けて、さらに時計を見てみたら6時を指していた。


 長針と短針がまっすぐ一本になっている。


 朝も朝。真朝だ。

 梨々香と長電話してた時でもこんなに時間を忘れたことはなかった。


「……恋って恐ろしいなぁ」


 目頭からこぼれ落ちる涙を軽く親指で拭う。

 本の余韻だけでも涙が出そうになる。


 素敵な本だった。


 すると、唐突にドアが開いてお母さんがこちらを覗きこんだ。


「聖、朝よ……って、あなたずっと起きてたの? 夜も光が漏れて……? 泣いてるの?」


 お母さんはこちらの顔を見て、珍しそうに声を細めて聞いてくる。


「あくびかな。てか、ノックしてから開けて」


「……分かった。朝ごはんは作っておくから食べてね。今日フライトで出ちゃうから」


「うん……えっ?」


 聞いてないんだけど……。

 そんなことを考えながらお母さんを見ると、肩を上下させてため息をつく。


「いや、急じゃない?」


「昨日言おうとしたのに返事がなくてこもりっきりだったから話せなかったのよ」


 どうしよう。

 灼をしっかりお母さんに紹介したいのにタイミングが……。


「もう今すぐ行っちゃうの?」


「いえ? 夕方くらいかしらね、だから聖が帰ってきたら最後に顔見て行こうかなって思ってるわ」


「じゃあさ、夕方に少しだけ話あるんだけどいい? 待っててくれる?」


 そう言うとお母さんは目を細めてこちらを見た。

 私の心を透かしてみようとしてるように。


「いいけど、話って?」


「それはその時に話すよ」

「……そう。分かったわ。出かけないで待ってる。ただ遅くなりすぎないでね? 遅くなるだけ話す時間もなくなるから」


 なんとなく真剣な話だと察したのか、ふぅと息を吐いて肩を落とし「顔はしっかり洗いなさい」と言い残してお母さんは扉をパタリと閉めた。


 顔……浮腫んでないかな。

 徹夜で色々とコンディションが心配になってくるけど、今日でお母さんが帰ってしまうなら徹夜で読みきってよかった。


 ベッドの上の本を見る。


 早く灼に伝えなきゃ、そんな気持ちでいっぱいだった。


 徹夜で読みきった本はとても素敵で温かい、涙が出る話だった。



 内容は耳の聞こえない女の子と、その幼馴染の男の子の恋愛だった。


 お互いに好き同士で手話を使って会話は出来るけど、気持ちが通じ合ってるかが分からない不安の中の恋。


 手話で好きだと伝えても、決まった言葉を表す手話ではニュアンスが上手に出せず「彼と同じように話せれば、伝えられるのに」と苦心する女の子。


 それに対して男の子は一生かけて女の子を支えると心に誓っているし、その献身が恋なのか、そして支えられる側へは気持ちが通じてるのかという擦り合わせに苦悩する。


 なんとなく分かっていても、言葉だけでは確証の得られない恋のすれ違いを描いた物語。


 そんな2人が言葉を超えて愛を誓う物語。



 灼もこんなロマンティックなものを読むんだなって気持ちと、まるで私たちみたいだなとか思いがページを捲る手を止められなかった。


 これは私たちみたい、というより私たちそのものに感じた。


 言葉で結婚しようなんて言い合っても、その中身が分からない。


 なんとなくお互いを好きと分かっていても、確証がなくて怖くて……。


 そんな状態でも、本の中の2人は結ばれた。


 何も特別なことはしていなかった。

 ただ……お互いに気付いただけ。


 好きじゃなきゃこうしてずっといないことに。


 灼も同じだ。

 好きじゃなきゃ一緒にいてくれない。


 ただ都合がいいからというだけで、お弁当を作ってきたり、鷹斗から私を守ってくれたりはしないはずだ。


 それこそ7つもある夫婦のルールを律儀に守って、挨拶も欠かさず「こういうの楽しい」と言ったりなんかしない。


 誰かを振り回してしまう私にずっと寄り添うなんて、きっと好きじゃなきゃ出来ない。


「私のことを見てて、そうすればきっと分かると思う」


 デートで言っていた彼女の言葉は、そういうことだったのか。

 灼がプロポーズを受けたのは、都合が良かった側面もきっとあった。


 だからこそ理解していたんだ。

 こういう不和が生まれる可能性を。


 そして行動で示し続けた。

 打算だけじゃ出来ない愛情表現を。


 灼の行動は全てが愛ゆえにということが、ハッキリと伝わった。

 バイアスなんてかけようのない献身は、私の心に深く突き刺さり続けている。


 もしかしたら、こうなることまで分かって私にこの本を進めたのかもしれない。


「酷いこと言っちゃったな……」


 止まったはずの涙が再び瞼から溢れてくる。

 灼を傷つけてしまった。


 直感という思い込みと決めつけで、私は灼に告白しておいて、相手が好きじゃないならそれは偽りだと自分を否定された気になった。


 自分の中で完結していればいいはずの直感や運命を、周囲にすら確認を求めて、思った結果にならなかったから1人で拗らせた。


 子供みたい。


 今まで灼がずっとそばにいて、笑ってくれていたことが何よりも幸せだったのに。

 

 謝らなきゃ……。

 そう思って私は灼にメッセージを送る。


『おはよう。灼、話があるから、朝は一緒に行ける?』 既読


 すぐ既読がついた。

 今メッセージアプリを開いてる……?


 もしかしたら開いたまま寝ちゃったのかな。

 それとも同じように私に何かを送ろうとした……?


 灼のゆっくりな返信は、そのどちらかを曖昧にしたままこちらに届いた。


『おはよう。明日はお休みだから、話は放課後がいい』


 お休みだから……?

 よく分からない理由だったけど、とりあえずそうすることにして


『分かった。朝は一緒に行ける?』 既読


 と返信すると、また少し遅れて『うん』とだけ帰ってきた。


 その間が、話しているときのように少しリアルだった。

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