第50話 楽園の余韻と、課長の日常

月曜日の朝。


(…はぁ)

彼は、心の底から深いため息を吐いた。

だが、その息遣いは、いつものような、魂が削り取られるかのような重苦しいものではなかった。

その奥に、ほんのわずかだけ、澄んだ潮の香りと、遠い波の音が、混じり合っているような気がした。

昨日の、あの狂乱の一日が、まるで遠い昔の夢のように感じられる。

楽園諸島。

白い砂浜、二つの太陽、そして、少女たちの、屈託のない笑い声。

その、あまりにも非現実的な光景が、彼の疲弊しきった魂に、一つの小さな、しかし確かな「染み」を残していた。

それは、決して消えることのない、温かい染みだった。


彼が、会社の最寄り駅で人の波に吐き出され、その重い足取りでオフィスへと向かう。

その足取りは、いつもより、ほんの少しだけ、軽かった。



オフィスフロアに足を踏み入れた瞬間、その空気は、いつも通りの、澱んだコーヒーの匂いと、無機質なキーボードの打鍵音で満たされていた。

だが、健司の心は、不思議と穏やかだった。

彼が、自らの部署であるシステム管理課の島へと向かい、その使い古されたオフィスチェアに腰を下ろした、その時だった。

一人の若い部下が、コーヒーカップを片手に、彼の元へとやってきた。

入社二年目の、山田だった。


「課長、なんか元気ですね。なにか息抜きでも?」

その、あまりにも唐突な、そしてどこまでも無邪気な一言。

それに、健司の眉が、わずかにピクリと動いた。

(…分かるのか、こいつ)

彼は、その完璧なポーカーフェイスの裏側で、わずかに動揺しながらも、その変化の理由を、正直に(ただし、大幅に脚色して)語った。

「ああ、少し楽園諸島に行ってきた。初めてだったが、悪くないな」


「楽園諸島!良いですよね!」

山田は、その大きな瞳をキラキラと輝かせた。

「やっぱり!俺も、先月から『プラス・アルファ・フロンティア制度』で始めて、うちの家族、妻と娘で月1で遊びに行ってますよ!あそこ、最高ですよね!」

その、あまりにも共感に満ちた言葉。

それに、健司はただ、曖昧に頷くことしかできなかった。

(…月1?マジかよ、このリア充め…)

山田の熱狂は、止まらない。

「物価は高いですが、ゴールドですからね。普段のダンジョンで、ドロップ品を売らないで、モンスター素材だけ地道に貯めておけば、それなりに贅沢出来ますし!先月なんて、娘にねだられて、海竜のステーキ、食べちゃいましたよ!マジで、美味かったなぁ…」


その、あまりにもリアルで、そしてどこまでも健全な、兼業冒険者の会話。

それが、引き金となった。

健司の周りに、他の部下達も集まってきて、オフィスはささやかな、しかし確かな「楽園談義」の熱気に包まれ始めた。


「えー、課長、楽園諸島行ったんですか!?」

別の、まだ若い女性社員が、その目を輝かせた。

「いいなー!私も、彼氏と行きたいって、ずっと話してるんですよ!」

そして彼女は、悪戯っぽく、そしてどこまでも核心を突く、質問を投げかけた。

「もしかして、ギルドの子達と、ですか?」

「…ああ」

「うわー!完全に、保護者じゃないですか!笑」

「えー、でも羨ましいです!あんな可愛い子たちと、ビーチでバカンスなんて!」


その、あまりにも的確な、そしてどこまでも健司の神経を逆なでする、賛辞の嵐。

それに、健司はただ、その死んだ魚のような目で、部下たちの顔を、一人一人見つめ返した。

そして彼は、その中間管理職としての、完璧なポーカーフェイスの裏側で、静かに、そして深く、戦慄していた。

(…こいつら、俺のプライベート、把握しすぎだろ…)

彼の、そのあまりにも個人的で、そしてどこまでも不本意な「週末の趣味」。

それが、今や、この会社の、全ての人間が知る公然の秘密と化している。

その、あまりにも恥ずかしい、そしてどこまでも面倒くさい現実に、彼の胃が、キリリと痛んだ。


「で、どうでした?課長!」

山田が、その興奮冷めやらぬ様子で、さらに食い下がる。

「ギルド島も、持つ計画でもしてるんですか?」

「いやー、ギルド島は、まだだな」

健司は、そのあまりにも壮大な野望を、即座に、そして全力で否定した。

だが、その彼の、あまりにも現実的な回答。

それが、部下たちの、さらなる熱狂の炎に、油を注ぐことになった。


「えー!もったいない!」

「今、ギルド島を持つのが、世界のトレンドですよ!」

「いやー、月詠のギルド島には、一回行ったほうが良いですよ!」

一人の、特にダンジョンに詳しい部下が、熱弁を振るい始めた。

「温泉と、和風の城郭で、マジでタイムスリップした気分になりますよ!あそこの露天風呂から見る、二つの太陽の夕焼けは、マジで、泣けます!」

「いやー、ドイツのギルド島の城も、一度見たほうが良いぞ!あれは凄い!」

別の、海外ギルドに詳しい部下が、続く。

「完全に、中世ヨーロッパの古城そのものだ!あそこのビアガーデンで飲む、黒ビールは、最高だぜ!」

「中国のギルド島も、なかなかですよ。水墨画の世界に迷い込んだみたいで。簡単に観光出来ますし、一度は行ってみる価値ありますよ、課長!」


その、あまりにも楽しそうな、そしてどこまでも生き生きとした、部下たちの会話。

それを聞きながら。

健司は、その心の中だけで、静かに、そして深く、息を吐いた。

彼は、そのあまりにも巨大な「格差」を、そして自らの「時代遅れ」っぷりを、必死に隠しながら、愛想笑いを浮かべた。

「…ほう。そんなに、凄いのか。今度、考えてみるよ」

彼の、そのあまりにも白々しい一言。

それに、部下たちは何の疑いもなく、深く頷いていた。

そして、その和やかな(そして、健司にとっては地獄のような)雑談の時間は、始業のチャイムの、無慈悲な音によって、その終わりを告げた。

部下たちが、それぞれの席へと戻っていく。

後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、山のように積まれた、手つかずの書類の山と、ただ一人、向き合う、哀れな中間管理職の姿だけだった。

彼は、その書類の、一番上の、一枚を手に取った。

『サーバー増設に伴う、稟議書』。

その、あまりにも現実的な文字列。

それに、彼は、ふっと、その口元を緩ませた。

そして、彼は呟いた。

その声は、心の底からの、本音だった。


「…まあ、こっちの方が、俺にはお似合いか」

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