第49話 楽園の歩き方

その日の週末。

ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』の本部…もとい、佐藤健司(35)のタワーマンションのリビングは、珍しく、穏やかな空気に包まれていた。

B級上位ダンジョンでの死闘、輝への引き抜き騒動、陽奈の両親へのご挨拶、そしてギルドハウス見学。あまりにも濃密すぎた数週間が過ぎ去り、彼らの前には、久しぶりに、何の予定もない、真っ白な休日が広がっていた。


「…暇だね」

最初に、その沈黙を破ったのは、ソファの上で寝転がりながら、スマホでSeekerNetのゴシップ記事を眺めていた、星野輝だった。

「だねー」

床の上で、ペットの【混沌こんとん】を粘土のようにこねくり回していた兎月りんごが、どこまでもマイペースに相槌を打つ。

キッチンでは、陽奈が新しいお菓子のレシピ本を読みふけり、そしてリビングの隅では、健司が、ただひたすらに、録り溜めた90年代のロボットアニメを、無表情で消化していた。

その、あまりにも平和で、そしてどこまでも自堕落な光景。

それに、輝は深いため息を吐くと、その体を、むくりと起こした。

彼女の、その大きな瞳が、獲物を見つけた肉食獣のように、キラリと輝いた。


「ねえ、ボス」

彼女の声は、どこまでも弾んでいた。

「あたしたち、こんだけ頑張ったんだからさ、たまには息抜きも必要じゃない?パーっと、遊びに行こうよ!」

その、あまりにも唐突な、そしてどこまでも魅力的な提案。

それに、陽奈とりんごも、その顔を輝かせた。

「いいですね!」「どこ行くのー?」


健司は、そのあまりにも眩しい、少女たちの期待の眼差しに、深いため息を吐いた。

(…また、面倒なことに…)

だが、その彼の、あまりにも後ろ向きな予測。

それを、輝は、最高の、そしてどこまでも抗いがたい一言で、覆した。


「決まってんじゃん!楽園諸島だよ!ボスは、初めてでしょ?」


その、あまりにも的確な、そしてどこまでも彼の逃げ道を塞ぐ、問いかけ。

それに、健司は、ぐっと言葉に詰まった。

そうだ。

あれ以来、彼らの話題は、常にリフトか、ペットか、あるいは次のダンジョンのことばかり。

あの、世界の理そのものが違うという、戦いのない聖域。

彼は、その存在を、少女たちから聞かされてはいたが、まだ一度も、その地に足を踏み入れたことはなかった。

「…まあ、まだ行ってないな」

彼の、そのあまりにも正直な、そしてどこまでも情けない一言。

それに、輝は、ニヤリと笑った。

「じゃあ、決まりだね!」

「楽園なんだろ?」

健司の、その最後の、ささやかな抵抗。

それに、陽奈が、最高の笑顔で頷いた。

「はい!すっごく、綺麗な場所ですよ!」

「うん!」

健司は、観念した。

「…分かったよ。ポータル、用意して。じゃあ、行こう!」

その、リーダーの、あまりにもあっけない降伏宣言。

それに、三人の少女たちは、この日一番の、そしてどこまでも無邪気な歓声を、上げたのだった。



ポータルを抜けた瞬間、彼らの全身を、これまでにないほどの、温かく、そしてどこまでも心地よい空気が包み込んだ。

ひんやりとしたダンジョンの石の匂いではない。

甘い花の香りと、太陽の匂い、そしてどこまでも澄み切った、潮の香りが混じり合った、生命力そのもののような空気。

そして、彼らの目に飛び込んできたのは、信じられないほどの、絶景だった。

どこまでも続く、真っ白な砂浜。その砂浜に、寄せては返す、エメラルドグリーンに輝く、穏やかな波。

空には、この世界のそれとは違う、少しだけ大きな、優しい光を放つ太陽が、二つ、輝いている。

そして、その太陽の光を浴びて、ヤシの木が、心地よい影を落としていた。


「――きゃー!すごい!」


最初に、その歓声を上げたのは、輝だった。

彼女は、その場でぴょんぴょんと飛び跳ね、その喜びを全身で表現していた。

「海だ!海だよ、陽奈ちゃん!」

「はい…!すごいです…!」

陽奈もまた、その大きな瞳を、これ以上ないほどキラキラと輝かせながら、その光景に、ただ息を呑んでいた。

はしゃぐ、二人。

その、あまりにも無邪気な姿。

それに、健司は、ふっと、その口元を緩ませた。


彼らが降り立ったのは、貿易港「サンクチュアリ・ポート」だった。

そのポータルの周辺には、無数の探索者たちが、思い思いの時間を過ごしていた。

戦闘服を脱ぎ捨て、ラフなTシャツと短パン、そして水着姿で、ビーチボールに興じる者たち。パラソルの下で、冷たいトロピカルジュースを飲みながら、談笑する者たち。

肌の色も、話す言葉も、そしてその背中に背負うギルドの紋章も、様々な人種が、そこにはいた。だが、その誰もが、ダンジョンの中のような、殺伐とした空気はまとっていない。ただ、穏やかに、そしてどこまでも楽しそうに、その休日を謳歌していた。


「…まるで、観光地だな」

健司が、その光景に、思わず呟いた。

「なあ、こいつら、全員冒険者なんだろ?」

「そうだよ、みんな冒険者だよ」

輝が、その問いに、頷いた。

「ここは、絶対的な安全地帯だからね。モンスターも、PKも、ここにはない。あるのは、ただ、酒と、飯と、そして最高のバカンスだけ。F級のひよっこから、A級のトップランカーまで、ここではみんな、ただの『観光客』ってわけ」

その、あまりにも的確な解説。

それに、健司はただ、感心するしかなかった。



彼らは、早速、その日の拠点となるビーチパラソルを確保すると、まず腹ごしらえのために、美味しい屋台で飯を買った。

屋台のメニューは、健司の常識を、軽く凌駕していた。

【A級海竜かいりゅう触手しょくしゅの串焼き】

【B級サラマンダーの丸焼き・サルサソース添え】

【F級スライムの核入り・レインボーかき氷】

その、あまりにもファンタジーで、そしてどこまでも美味そうなラインナップ。

健司は、そのあまりの物価の高さに一瞬だけ目眩を覚えたが、少女たちの「ボスのおごりだよね!?」という、無言の圧力に屈し、その全てのメニューを、人数分注文した。


そして、健司は、そのパラソルの下の、ビーチチェアでのんびりして、買ってきたばかりの、巨大な海竜の触手の串焼きを、その大きな口で頬張った。

プリプリとした、弾力。噛むほどに溢れ出す、濃厚な旨味。そして、ピリ辛のスパイスが、その全てを、完璧な一つの芸術へと昇華させていく。

「…うまい…」

彼の口から、素直な感嘆の声が漏れた。

彼は、その至福の味を、キンキンに冷えたビールで流し込むと、深く、そして満足げに、息を吐いた。

視線の先では、他のメンバーは遊んでいる。

輝は、早速どこからか見つけてきたビーチバレーの輪に混ざり、そのB級探索者としての驚異的な身体能力で、コートを支配していた。

陽奈とりんごは、その白い砂浜で、巨大な砂の城を作っていた。陽奈が、その繊細な指先で、美しい塔や城壁を築き上げ、りんごが、その隣で、よく分からない、前衛的なオブジェを、ただひたすらに積み上げていく。

フロンティア君は、その二人の周りを、楽しそうに飛び回りながら、「陽奈!その城壁の角度は、力学的に不安定だッピ!」「りんご!そのオブジェの芸術的価値は、僕のデータバンクでは測定不能だッピ!」と、的確な、しかしどこまでも的外れなアドバイスを、送り続けていた。


その、あまりにも平和で、そしてどこまでも温かい光景。

それを、健司は、ただ静かに、そしてどこか眩しそうに、見つめていた。

(…たまには、こういうのも、良いな)

彼の、その氷のように凝り固まっていたはずの心が、楽園の、二つの太陽の光を浴びて、わずかに、しかし確実に溶けていくのを感じていた。

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