第41話 嘆きの海溝と、中間管理職の日常業務

その週末。

ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』の、記念すべき第一回「経営戦略会議」は、健司のタワーマンションのリビングで、厳かに(そして、どこまでも騒がしく)執り行われていた。

議題は、ただ一つ。

『プロジェクト・リフト』の大成功によって得られた、莫大な利益と経験値。そして、レベル38に到達した我々の、今後の活動方針について。


「――というわけで、ボス!」

輝が、ARウィンドウに映し出した完璧なパワポ資料を指し示しながら、そのサイドポニーを揺らした。

「初期投資1000万円は、レジェンダリージェムの売却益で完全に回収!それどころか、純利益でプラスに転じてる!あたしたちのギルド、マジで経営状態、優良すぎ!」

彼女の、そのあまりにも嬉しそうな、そしてどこまでも商魂たくましい報告。

それに、健司は深く、そして重い息を吐いた。

彼の目の前のスプレッドシートにも、同じ数字が表示されている。確かに、黒字だ。中間管理職として、これほど心安らぐ言葉はない。

だが、彼の心は、晴れなかった。

なぜなら、この会議の本当の議題は、そこではなかったからだ。


「で?」

輝は、その大きな瞳をキラキラと輝かせ、次のスライドへとページをめくった。

タイトルは、『次期プロジェクト提案:目指せ!ペットコンプリートへの道!』。

「次の目標は、もちろんポイント稼ぎでしょ!あたし、もうカエルじゃ満足できない!次は、絶対カーバンクルが欲しい!」

「わ、私も…」

陽奈が、その隣で、頬を赤らめながら、続く。

「月の兎さんが、欲しいです…!」

「ドラゴン!」

りんごが、その会話に、どこまでもマイペースに、そしてどこまでも壮大な夢を、付け加えた。


その、あまりにも暴力的で、そしてどこまでも乙女チックな、欲望の奔流。

それに、健司は、こめかみを押さえた。

「…お前らな。だから、要石かなめいしはB級からしか出ないって言っただろ。また、あの面倒くさい周回をやるのか?」

「当たり前じゃん!」

輝が、そのあまりにも真っ当な正論を、さらに大きな正論で、叩き潰した。

「ボスだって、不死鳥ふしちょうなみだ、ゲットしてご満悦だったくせに!」

「…ぐっ」

健司は、言葉に詰まった。

確かに、あの毎秒HPが回復していく感覚は、彼の疲弊しきった魂に、唯一の安らぎを与えてくれていた。


彼は、観念した。

そうだ。

この会議は、もはや議論の場ではない。

ただの、決定事項の確認作業なのだ。

彼は、その中間管理職としての、完璧なポーカーフェイスの裏側で、静かに、そして深く、戦慄していた。

(…こいつら、俺がいない間に、完全に俺の扱い方をマスターしやがった…)


彼は、そのあまりにも巨大なプレッシャーに、屈した。

「……はぁ。分かった、分かったよ」

「ただし」と彼は続けた。

「いつまでも、B級下位で足踏みしているわけにもいかん。レベルも上がったことだし、そろそろ次のステージに行くぞ」

彼の、そのリーダーとしての、そしてこのギルドの唯一の大人としての、あまりにも真っ当な提案。

それに、三人の少女たちは、顔を見合わせた。

そして、彼女たちは同時に、最高の笑顔で、その最高のボスへと、敬礼した。

「「「はーい!」」」



その週末。

彼らが、その新たな戦場として選んだのは、B級中位ダンジョン【嘆きの海溝】だった。

そこは、永遠の豪雨と、荒れ狂う雷鳴に支配された、広大な海のダンジョン。足場は、嵐で難破した船の残骸や、滑りやすい濡れた岩場だけ。一歩足を踏み外せば、その下には、魂すらも凍らせるほどの冷たい深淵が、その口を開けていた。


「うわ…」

輝が、そのあまりにも陰鬱な光景に、顔をしかめた。

「マジで、テンション下がるんだけど、ここ」

「だ、大丈夫ですよ、輝ちゃん!」

陽奈が、その隣で、必死に励ます。

「きっと、可愛いお魚さんが、たくさんいますよ!」

「魚っていうか、化け物だけどな」

健司が、その夢のない現実を、吐き捨てるように言った。

彼の視線の先、荒れ狂う波の間から、半魚人のような鱗に覆われた、禍々しい影が、その姿を現し始めていた。


そこから始まったのは、もはや戦闘ではなかった。

ただ、一方的な、そしてどこまでも効率的な「作業」だった。

彼らのレベルは、すでに38。

そして、健司の首元には、あの【不死鳥ふしちょうなみだ】が、静かな、しかし絶対的な生命の輝きを放っている。


「――陽奈、バフを!」

「はい!」

陽奈がアイスを一口食べると、健司と輝の全身を、黄金のオーラが包み込んだ。

ダメージ、100%アップ。

「――行くぞ!」

健司の号令と共に、二人の前衛が、半魚人の軍勢へと突撃する。

輝の【ポイゾナスコンコクション】が、緑色の死の霧となって敵陣を包み込み、健司の【憎悪ぞうお残響ざんきょう】が、その霧の中で苦しむ敵を、追加冷気ダメージと共に切り裂いていく。

B級中位の、その手強いはずのモンスターたちが、まるでF級のゴブリンのように、その暴力の前に、なすすべもなく溶けていく。

そして、その最前線で、健司は一つの、あまりにも大きな「変化」を、その身で感じていた。


(…なんだ、これ…)

彼の、サラリーマンとしての魂が、そのあまりにも快適な環境に、戸惑っていた。

(ダメージが、痛くない…)

いや、正確には、痛い。

だが、その痛みが、次の瞬間には、まるで嘘だったかのように、消え去っていくのだ。

不死鳥ふしちょうなみだ】。

その、毎秒のHP自動回復。

それが、B級中位のモンスターが与えるダメージを、完全に相殺していた。

彼は、もはやただのタンクではない。

自ら回復する、不死身の要塞と化していた。


その日の夜。

彼らが、その日のノルマである要石かなめいし10個の収集を終え、健司のタワーマンションへと帰還した時。

リビングの巨大なローテーブルの上には、四つの皿に盛られたカレーライスと、ペットボトルのジュースが並べられていた。

陽奈が、その日の稼ぎで買った、少しだけ高級な牛肉を使って、腕を振るったのだ。

その、あまりにも家庭的で、そしてどこまでも温かい光景。

それに、健司の心の中の、何かが、わずかに、しかし確実に溶けていくのを感じていた。

彼は、その一口一口を、噛みしめるように味わった。

そして、彼はポツリと、その心の底から漏れ出た、あまりにも素直な一言を、呟いた。


「…うまいな」


その、あまりにも不器用な、しかしどこまでも優しい一言。

それに、三人の少女たちは、顔を見合わせた。

そして、彼女たちは同時に、最高の笑顔で、その最高のボスへと、言った。


「「「おかわり、ありますよ!」」」

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