第37話 課長の知らない常識

B級ダンジョン【古竜こりゅう寝床ねどこ】の最深部。

その灼熱のカルデラに、絶対的な静寂が戻っていた。

先ほどまでこの空間を支配していた、古竜マグマロスの圧倒的なプレッシャーは、兎月りんごが放った【超・火炎球】によって、その痕跡すら残さず消し炭と化していた。

後に残されたのは、おびただしい数のB級の魔石と、そしてその中心で、手慣れた様子でドロップ品を回収する、四人と一匹の姿だけだった。


「よし、こんなもんか」

佐藤健司(35)は、額の汗を拭いながら、満足げに頷いた。

二度目のB級ダンジョン挑戦。一度目の経験を元に、彼の指揮はさらに洗練され、パーティの連携も完璧に近いものとなっていた。もはや、この場所に彼らを脅かすものは何もない。


「はーい、こっちも終わりー!」

輝が、最後の魔石をインベントリに放り込みながら、快活な声を上げた。

だが、その彼女の動きが、ふと止まった。彼女は、マグマロスが消滅した、その中心に落ちていた一つのアイテムを拾い上げる。

「おっ、出たじゃん!」

彼女の声は、どこまでも弾んでいた。

「確率2分の1だから、前回は出なかったけど、今回は出て良かったー!」


彼女は、その黒曜石でできた八角形の石板を、健司へとひらひらと見せた。

「やったね、ボス!これで、あたしたちもリフトデビューできるよ!」

その、あまりにも当然のように、そしてどこまでも楽しそうに語られる、未知の単語。

それに、健司は眉をひそめた。

彼は、輝が差し出すその石板を、値踏みするように見つめる。その表面には、古代のオベリスクを模した紋様が、淡い青白い光で明滅していた。


要石かなめいし?なんだ、そりゃ。新しいクラフト素材か?」


彼の口から、純粋な疑問が漏れた。

その瞬間。

それまで姦しくおしゃべりを続けていた三人の少女たちの、その全ての時間が、止まった。

輝は、その大きな瞳をぱちくりとさせ。

陽奈は、その口を半開きにし。

りんごは、その手に持っていたお菓子の袋を、ぽとりと地面に落とした。

三人の視線が、まるで信じられないものを見るかのように、健司ただ一人へと、集中する。

洞窟の、空気そのものが、凍りついた。


その、あまりにも気まずい沈黙を、最初に破ったのは、陽奈の、おずおずとした、そしてどこまでも心配そうな声だった。


「あ、あの…健司さん…?」

彼女は、まるで壊れ物に触るかのように、優しく、そして慎重に、その言葉を紡いだ。

「もしかして…ネファレム・リフト、知らないんですか…?」

「ねふぁれむ…?」

健司は、そのRPGの隠しダンジョンみたいな名前に、首を傾げた。

「なんだ、それ」


その、あまりにも純粋な、そしてどこまでも無知な一言。

それに、輝は天を仰いだ。彼女は、こめかみを押さえ、今にも倒れそうな頭痛を必死にこらえているようだった。

「…うそでしょ。ボス、マジで言ってんの?」

彼女の声は、怒りというよりは、むしろ深い、深い哀れみに満ちていた。

「リフトなんて、B級探索者の基礎コンテンツだよ!?冒険者学校の、1年生の最初の授業で習うんだけど!?」

「教科書の、3ページ目くらいに載ってたよー」

りんごが、その会話に、どこまでもマイペースに、そして残酷な事実を付け加えた。


ここから、**少女たちによる「佐藤健司への、現代ダンジョン基礎知識詰め込み教育」**が始まった。

それは、もはやただのレクチャーではなかった。

一つの、あまりにも不憫な「生きた化石」に対する、三人の女神による、慈愛に満ちた、魂の救済活動だった。


「いいですか、健司さん」

陽奈が、まるで初めてパソコンに触る祖父に教えるかのように、そのARウィンドウに、SeekerNetの解説ページを表示させた。

「B級以上のダンジョンの前には、こういう黒いオベリスクが立っているんです。そこで、この要石かなめいしを使うと、【ネファレム・リフト】っていう、特殊なダンジョンに入ることができるんですよ」

「へえ…」

「中は、毎回構造が変わるんです。そして、敵を倒してゲージを100%にするとボスが出てきて、それを倒すとポイントが貰えるんです」


「なるほどな。で、そのポイントで何が貰えるんだ?」

健司の、そのあまりにも真っ当な質問。

それに、輝が、まるで世界の真理でも説くかのように、答えた。

彼女の瞳には、もはや侮蔑の色はない。ただ、何も知らない子羊を導く、聖母のような光だけが宿っていた。

「若返りの薬とか、すごいユニーク装備とか、色々あるけど…。今、世界で一番熱いのは、これだよ」

彼女は、ウィンドウに、一体の可愛らしい、半透明のカエルの霊体の画像を表示させた。

「ペットだよ、ペット!戦闘には参加しないけど、ただただ可愛いだけの、最高の癒やし!」

「JOKERが九尾きゅうびきつねを交換したのがきっかけで、世界中で大ブームになったの!知らないの!?」

「そうなんですよ!」

陽奈も、目を輝かせる。

「VTuberさんたちも、みんな可愛いペットを連れてて、毎日配信で自慢してるんです!」


その、あまりにも楽しそうな、そして健司にとっては全く未知の世界の会話。

それに、彼は、さらに致命的な一言を、放ってしまった。


「VTuber?なんだ、そりゃ」


再び、静寂。

今度の沈黙は、先ほどよりも、さらに深く、そしてどこまでも、重かった。

三人の少女たちは、もはや驚愕すら通り越して、ただ、その大きな瞳に、深い、深い哀れみの色を浮かべて、目の前の哀れな中年男性を、見つめていた。

輝は、そのこめかみを押さえていた手を、額へと移動させた。

そして、彼女は絞り出すように、その魂のツッコミを入れた。


「…は?マジで言ってんの?ボス、オタクなのにVTuber知らないの???」


その、あまりにも正論な、そしてどこまでも健司のアイデンティティの根幹を揺るがす一言。

それに、健司の、最後の理性の糸が、ぷつりと音を立てて、切れた。

彼は、その全ての魂を込めて、絶叫した。


「――うるさいな!」

「**ストレス解消に、古いアニメ見るぐらいしか、趣味がなかったんだよ!**悪かったな!」


その、あまりにも人間的な、そしてどこまでも哀れな、魂の叫び。

それに、三人の少女たちは、一瞬だけ、きょとんとした顔をした。

そして、次の瞬間。

彼女たちは、同時に、吹き出した。

輝は、腹を抱えて。

陽奈は、くすくすと、楽しそうに。

りんごは、きゃっきゃと、無邪気に。


その、あまりにも温かい、そしてどこまでも無慈悲な笑い声。

それに、健司は、その顔を真っ赤にさせながら、ただ俯くことしかできなかった。

彼の、哀れで、そしてどこまでも面倒くさい「新たな人生」は、また一つ、その面倒くささの、そしてどこまでも彼の尊厳を削り取る、新たなステージを、上げたのだった。


「…まあ、いいや」

輝は、涙を拭いながら言った。

「じゃあ、ボス。早速、リフト行こ!この、化石みたいなオジサンに、世界の『今』を、あたしたちが教えてあげるよ!」

その、あまりにも頼もしい、そしてどこまでも上から目線な一言。

それに、健司はもはや、何も言い返すことはできなかった。

彼は、ただ、その少女たちの腕に引かれるまま、ダンジョンの外にあるという黒いオベリスクへと、面倒くさそうに、しかしどこかまんざらでもない表情で、連れていかれるのだった。

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