第35話 嵐を呼ぶスポンサー契約

彼の、孤独で、静かだったはずの日常は、今や完全に、三人の女子高生と、一匹のARマスコットによって、支配されていた。


(…もう、何も考えたくない)


満員電車に揺られながら、彼は心の底からそう思った。

だが、世界は、彼に安息の時間を与えるつもりはないらしい。

彼が、会社の最寄り駅で人の波に吐き出され、その重い足取りでオフィスへと向かっていた、まさにその時だった。


ピロリン♪


静寂を切り裂くかのように、彼のスマートフォンが、間の抜けた、しかし彼にとっては悪魔の号令に等しい通知音を鳴らした。

画面に表示されたのは、彼がこの世で最も見たくないLINEグループの名前。

『アフターファイブ・プロジェクト公式作戦会議室』(※輝によって、勝手に改名されていた)。


(…来たか)


彼の、完璧だったはずの憂鬱な月曜日の計画が、音を立てて崩れ落ちていく。

彼は、深いため息を吐くと、観念してそのトーク画面を開いた。

そこに表示されていたのは、星野輝からの、あまりにもテンションの高いメッセージと、おびただしい数のスクリーンショットだった。


星野輝: 『ボスー!緊急事態!超ヤバい情報ゲットしたんだけど!』

星野輝: 『見てこれ!ギルドの公式メールボックス、マジでパンクしてるんですけど!』

[スクリーンショット1:『【Mana-Charge Energy Drinks】スポンサー契約のご提案』という件名のメール]

[スクリーンショット2:『【Ergo-Quest Gaming Chairs】CM出演のご依頼』という件名のメール]

[スクリーンショット3:『【Dungeon-Bites Protein Bars】製品コラボに関するお問い合わせ』という件名のメール]

...etc.


その、あまりにもきらびやかで、そしてどこまでも彼の日常とはかけ離れた、有名企業からのオファーの嵐。

それに、健司の思考が、完全に停止した。

彼が、そのあまりにも非現実的な光景に呆然としている、その間に。

輝からの、追撃のメッセージが、彼の魂を的確に撃ち抜いた。


星野輝: 『ボス!これ、あたしたちのギルドの、本格的な初仕事(ビジネス)だよ!』


その、あまりにも唐突な、そしてどこまでも一方的な宣言。

それに、健司は我に返った。

そして彼は、その震える指で、返信を打ち込んだ。

その文面は、彼の魂の叫びそのものだった。


佐藤健司: 『断る』


その、あまりにもシンプルで、そしてどこまでも絶対的な拒絶。

だが、その彼の、ささやかな抵抗。

それを、輝は、まるで予測していたかのように、あっさりと、そして無慈悲に、いなした。


星野輝: 『えー、でもこれ、ギルドの運営資金になるじゃん?あたしたち、この前の大会の賞金で、当分は安泰だと思ってたけど、この前の倉庫の契約で、もう半分くらい消えちゃったし。このままじゃ、来月の家賃(倉庫代)も払えないかもよ?』


(…ぐっ)

健司の、中間管理職としての、そしてこのギルドの唯一の会計担当としての魂が、そのあまりにも的確な指摘に、大きく軋んだ。

そうだ。

あの、勢いで契約してしまった、月額50万円の巨大な倉庫。

あれが、今や彼の首を、じわじわと締め上げているのだ。


星野輝: 『それにさー、陽奈ちゃんも、りんごちゃんも、すごく乗り気だよ?ね?』

その、あまりにも狡猾な、そしてどこまでも効果的な、根回し。

その輝のメッセージに呼応するかのように。

二人の、天使と悪魔が、その無邪気な刃を、健司へと向けた。


天野陽奈: 『私、Mana-ChargeドリンクのCM、いつも見てます!すごく、格好良いです…!私達も、出れるんですか…?』

兎月りんご: 『ゲーミングチェア!ふわふわのやつがいいなー!ピンク色の!』


その、あまりにも純粋な憧れと、どこまでもマイペースな欲望。

そして、とどめとばかりに。

彼の視界の隅で、ピンク色のタコが、ARウィンドウに一つの巨大なグラフを映し出した。


フロンティア君: 「健司!輝の言うことにも、一理あるッピ!」

彼は、熱弁を振るい始めた。

「データによれば、この種のスポンサー契約は、ギルドの長期的な成長期待値を、平均で32.8%も向上させるッピ!」


その、あまりにも無敵の、そしてどこまでもユーザーを馬鹿にした理論。

それに、健司はもはや、言葉もなかった。

彼は、その場で頭を抱え、うずくまりたい衝動に駆られた。

そして彼は、その社会人としての本能に従い、唯一の、そして最も効果的な魔法の言葉を、口にした。

それは、降伏宣言だった。


佐藤健司: 『…分かった。だが、交渉は、お前がやれ』



その週末。

健司は、その人生で最も場違いな空間に、その身を置いていた。

西新宿の、超高層ビル。その最上階にある、Ergo-Quest社の、あまりにもモダンで、そしてどこまでも無機質な会議室。

ガラス張りの壁の向こうには、彼が毎日、死んだ魚のような目で見上げている摩天楼が、今や彼の足元に広がっている。

その、あまりにも非現実的な光景。

それに、健司は深いため息を吐いた。


彼の向かいの席には、イタリア製の高級スーツを完璧に着こなした、エリート然としたマーケティング部の部長と、その部下たちが座っている。

その、あまりにも意識の高い、そしてどこまでも胡散臭い笑顔。

それに、健司の胃が、キリリと痛んだ。

だが、その彼の隣。

星野輝は、その空間に、一切物怖じする様子はなかった。

彼女は、そのサイドポニーを揺らしながら、まるで長年のビジネスパートナーと話すかのように、堂々と、そして的確に、交渉を進めていた。


「――ええ、契約金については、こちらの提示額で問題ありません。ですが、CMのクリエイティブに関しては、いくつかご提案が」

彼女の、そのあまりにも流暢な、そしてどこまでも抜け目のない交渉術。

それに、Ergo-Quest社のエリートたちが、わずかに目を見張る。

その、あまりにもシュールな光景。

健司は、ただ黙って、その全てを眺めていた。

彼は、もはやただのギルドマスターではない。

自らの、あまりにも優秀すぎる部下の、ただの「付き添い」だった。


数時間に及んだ交渉の末。

契約は、つつがなく成立した。

『アフターファイブ・プロジェクト』は、Ergo-Quest社の、年間スポンサー契約を、破格の条件で勝ち取ったのだ。

その、あまりにも大きな成果。

だが、その代償として、彼らは一つの、あまりにも面倒くさい「業務」を、請け負うことになった。

CMへの、出演だった。



撮影当日。

東京湾岸エリアの、巨大な撮影スタジオ。

そこは、一つの完璧な「夢」が、作り上げられていた。

レンガ造りの壁、年季の入ったオーク材のバーカウンター、そして壁際にずらりと並べられた、最新鋭のゲーミングPC。

それは、誰もが憧れる、理想の「ギルドハウス」のセットだった。

その、あまりにもきらびやかで、そしてどこまでも作り物めいた空間。

その中心に、健司は、その人生で最も居心地の悪い衣装を、着せられていた。

体にフィットする、黒いライダースジャケット。

ダメージ加工の施された、細身のジーンズ。

スタイリストによって、ワックスで無造作に立てられた、髪。

その、あまりにも「若者向け」で、そしてどこまでも彼に似合わない出で立ち。

彼は、鏡に映る自らの姿に、心の底から、死にたくなっていた。


「はーい、OKでーす!じゃあ、皆さん、位置についてくださーい!」

スタジオに、監督の、甲高い声が響き渡る。

三人の少女たちが、そのCM用の衣装に身を包み、それぞれのゲーミングチェアへと、腰を下ろした。

彼女たちは、完璧だった。

輝は、その黒いビキニの上に、挑発的なメッシュのパーカーを羽織り、小悪魔的な笑みを浮かべている。

陽奈は、白いフリルのついたワンピースが、その清純な魅力をさらに引き立てていた。

りんごは、ゴスロリ風のドレスに、なぜか猫耳のカチューシャをつけて、その不思議な世界観を完成させていた。

その、あまりにも絵になる、三人の少女たち。

そして、その中心に、一人だけ、合成写真のように浮いている、中年男性。


「よーし、本番、行くぞー!レディー、アクション!」

カチンコが、鳴る。

その瞬間、少女たちの表情が、プロのそれへと切り替わった。

輝は、クールな流し目で、カメラを射抜く。

陽奈は、天使のような、完璧な微笑みを浮かべる。

りんごは、こてんと首を傾げ、そのミステリアスな魅力を、振りまく。

その、あまりにも完璧な、そしてどこまでも様になっている、彼女たちの姿。


「素晴らしい!最高だよ、君たち!」

監督が、歓喜の声を上げる。

「じゃあ、次は、健司さん!リーダーとして、彼女たちを、誇らしげな目で見守る感じで!はい、お願いしまーす!」

その、あまりにも無茶苦茶な、そしてどこまでも抽象的な指示。

それに、健司の、思考が停止した。

(…誇らしげな、目…?)

彼は、必死に、その感情を、その死んだ魚のような瞳に、宿そうと試みた。

だが、その結果生まれたのは、ただの、便秘に苦しむ中年の、苦悶の表情だけだった。


「――カットォ!」

監督の、絶叫が響き渡る。

「健司さん!違う!そうじゃない!もっと、こう、リラックスして!君は、王なんだ!このギルドの、王なんだよ!」

その、あまりにも熱血な、そしてどこまでも的外れな檄。

それに、健司はもはや、何も言うことはできなかった。

彼は、ただ、その場で、石像のように固まることしかできなかった。

その、あまりにもポンコツな、そしてどこまでも哀れなリーダーの姿。

それに、三人の少女たちは、その完璧なアイドルの仮面の下で、必死に、その笑いをこらえていた。


その地獄の撮影は、数時間に及んだ。

最終的に、監督は健司の全てのソロショットを諦め、「まあ、君は、後ろ姿だけでいいや」という、あまりにも無慈悲な結論を下した。

その日の夜。

健司が、ようやく解放され、自室のベッドに倒れ込んだ、その時。

ピロリン♪と、スマートフォンが軽快な音を立てた。

画面に表示されたのは、輝からの、LINEだった。

そこには、一枚の画像と、一言のメッセージだけが、添えられていた。


[画像:スタジオの隅で、死んだ魚のような目で、遠くを見つめる佐藤健司の盗撮写真]


星野輝: 『ボス、今日のポンコツっぷり、マジ最高だったよ(笑)』


その、あまりにも無慈悲な、しかしどこか愛情のこもった一言。

それに、健司は、ただ、その手に持っていたスマートフォンを、ベッドの上へと、放り投げることしかできなかった。

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