第34話 地獄の社内食事会

月曜日の夜。

佐藤健司(35)の、サラリーマンとしてのHPは、すでに残り1ミリだった。

一週間の激務という名の不条理なダンジョンを攻略し終え、ようやくたどり着いた金曜日の夜。その、あまりにもささやかな安息は、ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』のメンバーである三人の女子高生によって、無慈悲に粉砕された。

そして今、彼は人生で最も難易度の高いダンジョンへと、その重い足取りを向けていた。

接待。

それも、自社の社長と部長、そしてその息子たちを相手取るという、絶対に失敗の許されない、S級難易度のクエストだった。


舞台は、新宿の摩天楼の最上階に店を構える、完全個室の高級料亭。磨き上げられた黒檀の廊下は、人の足音を完全に吸収し、壁にかけられた水墨画が、間接照明に静かに照らされている。空気中には、高価な白檀の香りが、ほのかに漂っていた。

あまりにも、静かすぎる。

あまりにも、格式が高すぎる。

健司は、そのあまりにも場違いな空間に、すでに帰りたくなっていた。彼の、よれたスーツと、疲弊しきった魂は、この場所に、一ミリたりとも馴染んでいなかった。


「…おい、お前ら」

彼は、その背後を、まるでカルガモの親子のように、ちょこちょことついてくる三人の少女たちへと、最後の釘を刺した。

「いいか、絶対に、粗相をするなよ。特に、りんご。お前は、絶対に、勝手にスキルを使うな。分かったな?」

その、あまりにも切実な、そしてどこまでも親心に満ちた(?)警告。

それに、三人の少女たちは、顔を見合わせた。

そして、彼女たちは同時に、完璧な、そしてどこか見慣れない、お淑やかな笑みを浮かべて、頷いた。

「「「はい、マスター」」」


その、あまりにも息の合った、そしてどこまでもよそよそしい返事。

それに、健司の背筋に、ぞくりと悪寒が走った。

(…なんだ、こいつら…)

彼は、その違和感の正体を、まだ理解できずにいた。


仲居に案内され、彼らが通されたのは、広大な個室だった。床から天井まで続く巨大な窓からは、宝石箱をひっくり返したかのような、東京の夜景が一望できる。

そして、その部屋の上座には、すでに二人の男が、満面の笑みで座っていた。

この会社の絶対的な王、五十嵐社長。

そして、健司の直属の上司であり、最強のゴマすりマシーン、鈴木部長。

彼らの隣には、それぞれ高校生くらいの年頃の息子が、緊張した面持ちで座っている。


「おお、来たかね!佐藤君!」

社長が、その大きな体で、手招きをする。

「いやー、待っていたよ!君こそが、我が社の、いや、日本の誇りだ!」

その、あまりにも手放しの、そしてどこまでも本心からの(?)賞賛。

それに、健司はただ、その背中に冷や汗を流しながら、深々と頭を下げることしかできなかった。

「…恐縮です」


そして、彼の背後から、三人の少女たちが、まるで天女のように、静かに、そして優雅に、その姿を現した。

その瞬間、部屋の空気が、変わった。


「――はじめまして」

最初に、その沈黙を破ったのは、星野輝だった。

彼女は、そのサイドポニーを揺らしながら、完璧な角度で、お辞儀をした。その声は、いつものようなギャルのそれではない。どこかの名家の令嬢のような、澄んだ、そしてどこまでも理知的な響きを持っていた。

「本日は、このような素晴らしい席にお招きいただき、誠にありがとうございます。ギルド『アフターファイブ・プロジェクト』所属の、星野輝と申します。佐藤マスターには、いつも公私にわたり、厳しくも温かいご指導をいただいております」


(…は?)

健司の、思考が、完全に停止した。

(マスター?指導?なんだ、それは。俺は、お前の金遣いの荒さに、説教してるだけだぞ?)


だが、彼の内なる絶叫など、知る由もなく。

次に、天野陽奈が、一歩前に出た。

彼女は、その大きな瞳を、わずかに潤ませながら、しかしどこまでも健気な表情で、言った。

「天野陽奈です。未熟者ですが、マスターや仲間たちと、一日でも早く社会に貢献できる冒険者になれるよう、日々精進しております。本日は、よろしくお願いいたします」


(…社会貢献?お前、この前、ダンジョンで拾った珍しいキノコを、フロンティア君に食べさせて、システムを半日ダウンさせただろ…)

健司の、胃が、キリリと痛んだ。


そして、とどめとばかりに。

兎月りんごが、そのふわふわとしたツインテールを揺らしながら、天使のような、そしてどこまでも計算され尽くした笑顔で、言った。

「兎月りんごです。将来の夢は、世界を平和にすることです(にこっ)」


(…お前の将来の夢は、うまい棒で城を建てることだったはずだ…)

健司は、もはや言葉もなかった。

彼は、ただ、目の前で繰り広げられる、このあまりにも完璧な、そしてどこまでも白々しい茶番劇を、呆然と見つめることしかできなかった。

猫だ。

猫を、被っている。

それも、ただの猫ではない。

シャム猫や、ペルシャ猫のような、一級品の、完璧な猫を。


その、あまりにも完璧な、少女たちの自己紹介。

それに、社長と部長は、その顔を、これ以上ないほど、でれでれに緩ませていた。


「いやー、素晴らしい!実に、素晴らしいじゃないか!」

社長が、その大きな手で、テーブルを叩いた。

「佐藤君!君は、なんと素晴らしい部下を、育て上げたんだ!この、礼儀正しさ!この、志の高さ!見上げたものだ!」

「ええ、全くですな、社長!」

鈴木部長もまた、その細い目をさらに細めながら、相槌を打つ。

「我が社の未来も、安泰ですな!はっはっは!」


その、あまりにも能天気な、そしてどこまでも勘違いに満ちた賞賛の嵐。

それを聞きながら、健司はただ、その心の中だけで、静かに、そして深く、絶叫していた。

(おいおいおい、いつもと様子が違うじゃねーか!俺の前でも、少しはその万分の一でもいいから、そうしてくれよ!)



宴は、和やかに、そして健司にとっては地獄のように、進んでいった。

少女たちの、完璧な「猫かぶり」は、留まるところを知らなかった。

輝は、社長の、あまりにも退屈なゴルフの自慢話を、最高の笑顔で聞きながら、「すごいですね!私も、いつかマスターに、ビジネスゴルフの嗜みをご教授いただきたいです!」などと、完璧なヨイショを繰り出す。

陽奈は、鈴木部長の息子が、冒険者学校のランキングで伸び悩んでいるという、どうでもいい悩みを、まるで自分のことのように、真剣な表情で聞き、「大丈夫ですよ。きっと、あなたならできます。私、応援してますから」と、聖母のような笑みで、励ましている。

りんごは、出された懐石料理の、その美しい盛り付けを、うっとりとした表情で見つめながら、「…綺麗。まるで、食べられる宝石みたい…」と、どこまでも詩的な、そしてどこまでも意味不明な感想を、漏らしていた。


その、あまりにも完璧な、接待スキル。

それに、健司はもはや、戦慄すら覚えていた。

(…こいつら、俺より、社会人してるじゃねえか…)


そして、その地獄の宴は、ついにクライマックスを迎える。

社長と部長の息子たちが、その顔を真っ赤に染めながら、おずおずと、色紙とペンを差し出してきたのだ。


「あ、あの…!」

部長の息子が、震える声で言った。

「サイン、ください!」

「僕も、お願いします!」

社長の息子も、続く。

その、あまりにも純粋な、そしてどこまでもキラキラとした、ファンの眼差し。

それに、三人の少女たちは、顔を見合わせた。

そして、彼女たちは同時に、最高の、そしてどこまでもアイドル的な笑顔で、応えた。


「「「はい、喜んで!」」」


彼女たちは、その場で、スラスラと、まるで何百回も練習してきたかのような、流麗なサインを書き始めた。

そして、その横に、小さなイラストまで添える、という神対応。

輝は、自分のサインの横に、小悪魔のようなウインクをした、自画像を描き。

陽奈は、優しい笑顔の、天使のような自画像を描き。

りんごは、なぜか、うまい棒のキャラクターを描いていた。


その、あまりにも完璧な、ファンサービス。

それに、二人の少年は、もはや言葉もなく、ただその場で、感涙にむせんでいた。

そして、その感動の輪は、彼らの父親たちにも、伝播した。


「おお…!なんと、素晴らしい…!」

「佐藤君!君のギルドは、ファンを、何よりも大切にするのだな!その精神、我が社も見習わなければならん!」


その、あまりにも的外れな、しかしどこまでも熱狂的な賞賛。

それに、健司はもはや、何も言うことはできなかった。

そして、その地獄は、記念撮影という名の、最後の儀式で、その幕を閉じた。

健司は、その三人の完璧なアイドルの、その中心に、まるで公開処刑される罪人のように立たされ、その引きつった笑顔で、フラッシュの光を浴び続けた。



宴が終わり、料亭の玄関。

社長と部長は、その上機嫌のまま、ハイヤーに乗り込んでいった。

「いやー、佐藤君!今日は、本当にありがとう!最高の、夜だったよ!」

「近いうちに、また、必ず!」

その言葉を最後に、黒塗りの高級車は、夜の闇の中へと消えていった。


後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、まるで燃え尽きたかのように、真っ白になって立ち尽くす、一人の哀れな中年男性と、その周りで、何事もなかったかのように、けろりとしている、三人の少女たちの姿だけだった。

健司が、ようやく我に返り、その震える声で、言った。


「…お前ら、一体、何なんだ…」

その、あまりにも切実な、魂の問いかけ。

それに、輝は、その完璧だったはずのお淑やかな笑顔を、一瞬で脱ぎ捨てた。

そして、いつもの、ふてぶてしいギャルの顔に戻って、言った。


「はぁ?何って、接待だけど?」

彼女は、心底不思議そうに、首を傾げた。

「ビジネスの基本でしょ?ボスこそ、何固まってんのよ。社会人失格じゃん」

その、あまりにも正論な、そしてどこまでも無慈-慈悲な一言。

それに、健司は、その場で崩れ落ちそうになった。

彼の、35年間のサラリーマン人生。

その全ての経験とプライドが、今、この17歳の少女の一言によって、完全に、そして木っ端みじんに、打ち砕かれたのだ。

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