第6話 魔法みたいな、と君が言ったから

F級ダンジョン【ゴブリンの巣】。

そのひんやりとした湿った土の匂いと、壁一面に自生する発光苔が放つぼんやりとした青白い光。そのあまりにもゲーム的な風景の中を、二つの不釣り合いな影が、これ以上ないほど気まずい沈黙と共に進んでいた。


佐藤健司(35)の心は、後悔の嵐が吹き荒れていた。

(…終わった。俺の人生、完全に終わった…)

数分前、彼の視界の隅でふわふわと浮遊するピンク色のタコ…フロンティア君の、あまりにも純粋な、そしてどこまでも悪意に満ちたアドバイス。それに乗ってしまった結果、彼はパーティを組んだばかりの16歳の少女の頭を、何も言わずに撫でるという、完璧な不審者ムーブを敢行してしまった。

少女…天野陽奈は、石像のように固まり、その大きな瞳には明らかな困惑と、わずかな恐怖の色が浮かんでいる。

洞窟の空気は、絶対零度まで冷え切っていた。

彼の配信を見ている、たった三人の視聴者。そのチャット欄は、『wwwwww』という無慈悲な文字列と、『事案』『通報した』という、彼の社会的生命の終わりを告げるファンファーレで、埋め尽くされている。


(死にたい…。今すぐ、ポータルで家に帰りたい…)

彼の、サラリーマンとして長年培ってきた全てのプライドが、粉々に砕け散る音がした。

彼は、この地獄のような沈黙を、どうにかして破壊しなければならないと、必死にその錆びついた脳を回転させた。

何か、何か話題を。

当たり障りのない、それでいてこの気まずさを霧散させてくれるような、魔法の言葉を。

そうだ、ゲームの話だ。

オタクである彼にとって、最も安全で、そして唯一得意とする領域。


「…あー、その」

彼が、ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど上ずっていた。

「**天野は、クラスは何にしてるんだ?**俺は、ほら、見ての通りまだレベル1で、クラスも選べてないんだが。俺はまだ、レベルアップしてないんだ」


その、あまりにも唐突な、そしてどこまでもぎこちない話題転換。

それに、固まっていた陽奈の肩が、わずかにピクリと動いた。

彼女は、おずおずと、その潤んだ瞳で佐藤を見上げた。

そして、その小さな唇から、鈴を転がすような、しかしどこまでもか細い声が、漏れた。


「…あ、あの…」

「陽奈で、良いですよ。健司さん」


その、あまりにも予想外の、そしてどこまでも優しい一言。

それに、今度は佐藤の方が、固まる番だった。

(ひ、陽奈…?健司さん…?)

彼の脳内で、その言葉が何度も反響する。

35年間生きてきて、19歳も年下の少女に、下の名前で呼ばれたことなど、一度もない。

彼の顔が、カッと熱くなるのを感じた。

だが、その彼女の、あまりにも健気な歩み寄り。

それが、この凍りついた空気を、わずかに、しかし確実に溶かし始めていた。


「…あ、ああ。じゃあ、陽奈…ちゃん」

「…はい」

「それで、クラスは…?」

「あ、えっと…」

陽奈は、少しだけ頬を赤らめながら、答えた。

「えーと、魔術師を選ぶつもりですね」


その、あまりにも王道な選択。

それに、佐藤の心も少しだけ落ち着きを取り戻した。

そうだ。

これでいい。

このまま、当たり障りのないゲームの話を続けていれば、きっとこの地獄は終わる。

彼は、そう確信した。


「ほう、魔術師か。良いじゃねえか。やっぱり、女の子は魔法に憧れるもんなのか?」

その、彼のどこか古臭い、そして完全に偏見に満ちたオタク的な発言。

それに、陽奈はこくりと、深く頷いた。

そして彼女は、その大きな瞳を、どこか遠い場所へと向けながら、語り始めた。

その声は、これまでの気弱な響きが嘘のように、確かな、そしてどこまでも純粋な熱を帯びていた。


「…はい」

「私、魔法を使うのに、子どもの頃から憧れてて」

「小さい頃、よくテレビでやってたじゃないですか。魔法少女のアニメとか、異世界ファンタジーの映画とか。杖を振るうだけで、奇跡を起こす。キラキラしてて、すごく、格好良くて…」

彼女は、そこで一度言葉を切ると、自らの胸元で輝く、初心者用の貧相な木のワンドを、そっと握りしめた。

「だから、私、冒険者学校に入って、ユニークスキルが分かった時、すごく嬉しかったんです」

「…え?」

佐藤は、思わず聞き返した。

彼女のスキルは、E級の【至福しふくひとさじひとさじ】。

一日一回、アイスを一個作るだけ。

戦闘には、全く役に立たない。

誰もが、「ハズレ」だと、そう言うはずだ。

だが、彼女はゆっくりと首を横に振った。

その瞳には、揺るぎない、そしてどこまでも誇らしげな光が宿っていた。


「このユニークスキル、至福しふくのひとさじも、魔法みたいで、実は凄く好きなんです」

「だって、そうじゃないですか。何もないところから、甘くて、冷たくて、人を笑顔にできるものが生まれるんですよ?これって、立派な魔法だって、私は思うんです」

彼女は、そう言うと、少しだけ寂しそうに、しかしどこまでも力強く、微笑んだ。

「みんなは、ハズレスキルだって言うけど、私は大好きです」


その、あまりにも真っ直ぐな、そしてどこまでも純粋な魂の告白。

それに、佐藤の、長年の社会人生活とオタク趣味で、厚い氷のように凝り固まっていたはずの心の、その最も深い部分が、音を立てて、砕け散った。

そうだ。

忘れていた。

俺も、昔はそうだったじゃないか。

ただ、好きだからという理由だけで、寝る間も惜しんでゲームに熱中し、アニメの世界に心を焦がしていた、あの頃。

効率とか、費用対効果とか、そんなくだらない物差しでは測れない、純粋な「好き」という名の、最強のエネルギー。

それを、目の前のこの少女は、まだ持っている。

そして、その輝きは、あまりにも眩しかった。


「…そうか」

彼の口から、感嘆のため息が漏れた。

彼は、その少女の、純粋な魂に、心の底から敬意を表していた。

そして彼は、言った。

その声には、いつものような皮肉な響きはない。

ただ、どこまでも温かく、そして優しい響きだけがあった。


「…そうだよな。魔法みたいで、素敵だよ」


その、彼からの、初めての、そして心からの肯定の言葉。

それを聞いた瞬間。

陽奈の顔が、ぱああっと、これ以上ないほどの、満開の花のような笑顔になった。

「――はいっ!」

彼女の、そのあまりにも嬉しそうな返事。

それが、この世界の理を、再び捻じ曲げる引き金となった。


その瞬間。

二人の体を、まばゆい黄金の光が、包み込んだ。

それは、ただの光ではない。

魂と魂が共鳴し、新たな絆が生まれたことを祝福する、神々のファンファーレ。

彼の脳内に、直接、無機質な、しかしどこまでも荘厳なシステムメッセージが、響き渡った。


【「絆」が深まりました】

至福しふくのひとさじのランクが、Dに上がりました】

【パッシブスキル:『食後の優雅な戦闘』が追加されました】

【効果:アイスを食べた後、その日一日の間、獲得経験値が100%アップします】


その、あまりにも唐突な、そしてどこまでもゲーム的なアナウンス。

それに、陽奈はきょとんとした顔で、首を傾げた。

「…あのー、これってまた、何か流れてるんですけど、なんですか?」

「……………」

佐藤は、言葉を失っていた。

彼の、百戦錬磨のゲーマーとしての脳が、その表示されたテキストの意味を、必死に理解しようとしていた。

(経験値、100%アップ…?一日、ずっと…?)

(なんだ、これ。なんだよ、このぶっ壊れ性能は…!)

(E級の、ただのアイスを作るだけのスキルが、D級になっただけで、神話級のサポートスキルに化けたぞ…!)

(これが…【盟約の円環】の、本当の力か…)


彼は、そのあまりにも巨大すぎる力の奔流に、戦慄していた。

そして彼は、目の前で不思議そうに首を傾げている、この無垢な少女の、その本当の価値を、ようやく理解した。

彼女は、ただのE級冒険者ではない。

俺の、このSSS級のクソスキルを、本当の意味で「完成」させるための、唯一無二の、運命のパートナーなのだと。


「…あ、あの、健司さん…?」

陽奈の、不安そうな声。

それに、佐藤ははっと我に返った。

そうだ。

この力は、まだ彼女には、早すぎる。

そして、何よりも、面倒くさい。

彼は、しょうがないので、その場しのぎの嘘をつくことにした。


「ああ、これ、俺のユニークスキルでね」

彼は、できるだけ平静を装って言った。

「パーティメンバーの、役に立つスキルを、たまに強化するんだよ。まあ、気にするな。大したことじゃ、ねえから」

その、あまりにも苦しい言い訳。

それに、陽奈はその純粋な瞳で、こくりと頷いた。

「へえ、そうなんですか!すごいですね、健司さんのスキル!」


その、あまりにも素直な、そしてどこまでもキラキラとした尊敬の眼差し。

それに、佐藤の心臓が、大きく軋んだ。

そして彼は、彼女に聞こえないほどの、小さな声で呟いた。

その声は、絶望と、そしてわずかな歓喜に、満ちていた。


「…ただ、褒めただけだぞ…?これだけで、盟約認定かよ。俺、ちょろすぎだろ…」

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