第5話 不審者ムーブ
F級ダンジョン【ゴブリンの巣】。
そのひんやりとした湿った土の匂いと、壁一面に自生する発光苔が放つぼんやりとした青白い光。そのあまりにもゲーム的な風景の中を、二つの不釣り合いな影が、気まずい沈黙と共に進んでいた。
一人は、佐藤健司(35)。よれたTシャツとスウェットの上に、申し訳程度の革の胸当てを身に着けた、どこにでもいる冴えない中年男性。
もう一人は、天野陽奈(16)。冒険者学校の真新しい制服に身を包んだ、守ってあげたくなるような可憐な少女。
数分前、彼はパーティから追い出され涙に暮れていた彼女を、衝動的に、そして彼自身の計算に基づいて「引き取った」。そして、彼女からの感謝の印である絶品の限定アイスクリームを受け取り、なし崩し的にパーティを組むことになった。
(…なんで、こうなった)
佐藤は、心の底から後悔していた。
彼の視界の隅では、三人の物好きな視聴者が見守る配信ウィンドウと、そしてその隣でふわふわと浮遊するピンク色のタコ…フロンティア君が、彼の精神をじわじわと蝕んでいた。
陽奈は、彼の数歩後ろを、まるで迷子の雛鳥のように、おずおずとついてくる。
会話はない。
あるのは、洞窟の天井から滴り落ちる水滴の音と、二人のぎこちない足音だけ。
(気まずい…。気まずすぎる…)
彼は、生まれてこの方35年間、これほどまでに気まずい沈黙を経験したことがなかった。年の差、19歳。共通の話題など、あるはずもない。下手に話しかければ、セクハラだと訴えられかねない。だが、黙っていれば、不審者だと思われるかもしれない。
八方塞がり。
まさに、人生の詰み(チェックメイト)だった。
その、彼の内なる葛藤を見透かしたかのように。
フロンティア君が、けたたましいアラート音と共に点滅を始めた。
「警告だッピ、健司!パーティ内の『絆』生成レートが、推奨値を42%下回っているッピ!このままでは【盟約の円環】の増幅効果は期待できないッピ!」
(うるせえな、このタコ…)
佐藤は、ARカメラのマイクが拾わないように、心の声だけで悪態をついた。
だが、フロンティア君は止まらない。
彼の目の前に、ARウィンドウが強制的に表示された。そこには、彼が最も見たくない、あの忌々しいデータベースのタイトルが輝いていた。
【データベース:ハーレム主人公の教科書】
「**仲間が増えたッピ!**素晴らしいことだッピ!」
フロンティア君の声は、どこまでも明るかった。
「だが、ただ仲間になるだけでは意味がないッピ!ここは仲良くなるために、そして二人の絆を次のステージへと引き上げるために、一つの儀式が必要だッピ!」
「…儀式だと?」
「そうだッピ!データベースによれば、パーティに新たなヒロインが加わった際、主人公がその信頼を勝ち取るための最も効果的な行動。それは…」
フロンティア君は、そこで一度、タメを作った。
そして、その絶対的な、そしてどこまでも狂った「最適解」を告げた。
「頭を撫でるッピ!」
「……………は?」
佐藤の思考が、完全に停止した。
「何を言ってるんだ、お前は」
「だから、頭を撫でるんだッピ!」
フロンティア君は、熱弁を振るい始めた。
「女性は、信頼する年上の男性に頭を優しく撫でられることで、絶対的な安心感を得ることができると、数万の事例データによって結論付けられているッピ!さあ、健司!今すぐ、陽奈の頭を撫でて、君が彼女の保護者であり、そして絶対的な庇護者であることを、その掌の温もりで教えてあげるんだッピ!」
その、あまりにも純粋な善意からくる、空気が読めないサイコパス的な提案。
それに、佐藤の額に青筋が浮かんだ。
「できるか、そんなこと!いきなりJKの頭を撫でる35歳のおっさんとか、ただの不審者だろうが!通報されるわ!」
だが、フロンティア君は少しも怯まなかった。
「問題ないッピ!君たちの絆レベルは、先ほどのアイスクリームの贈呈によって、1から2へと上昇しているッピ!このレベルならば、『頭を撫でる』行為は、92.8%の確率で『好意的な行動』として受け入れられるはずだッピ!さあ!勇気を出して!」
その、あまりにも無責任なデータと、純粋な善意からの力強い後押し。
佐藤は、深く、そして重いため息をついた。
「…はー、なんでそんな事…」
彼は、心の底からそう思った。
だが、同時に。
彼の、ゲーマーとしての、そしてオタクとしての魂の片隅で、一つの小さな、しかし無視できない好奇心が芽生えていた。
(…本当に?)
(いや、まさかな。だが、こいつの言うことは、一応ギルドの公式データに基づいているはずだ)
(それに、もしこれで本当に絆レベルとやらが上がって、あのアイスが3個になったりしたら…?)
その、あまりにもくだらない、しかし彼にとっては世界の何よりも重要な可能性。
それが、彼の最後の理性の防壁を、打ち砕いた。
「……」
彼は、一度だけ天を仰いだ。
そして、彼は呟いた。
その声は、これから死地へと赴く兵士のようだった。
「…まあ、こいつのアドバイスだから、一度従ってみるか」
彼は、意を決した。
そして、おそるおそる、その一歩を踏み出した。
彼は、何も言わずに陽奈の隣に立つ。
そして、そのぎこちない右手を、ゆっくりと、ゆっくりと上げた。
陽奈が、その奇妙な動きに気づき、きょとんとした顔で彼を見上げる。
「…? 佐藤さん…?」
その、あまりにも無垢な瞳。
それに、佐藤の心臓が大きく軋んだ。
(やめろ!やめるんだ、俺!)
彼の、理性が叫ぶ。
だが、彼の体はもう、止まらない。
彼は、その少しだけ汗ばんだ掌を、彼女のサラサラとした黒髪の上へと、そっと置いた。
そして、ぎこちなく、数回、その頭を撫でてみた。
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
陽奈は、その大きな瞳をこれ以上ないほど見開き、完全に固まっていた。
その小さな体は、まるで石像のように、ピクリとも動かない。
そして、洞窟の空気そのものが、まるで絶対零度の氷のように、完全に固まった。
その、あまりにもシュールで、そしてどこまでも気まずい光景。
それを、彼の配信チャンネルで見ていた、三人の視聴者。
彼らのチャット欄が、爆発した。
『……………は?』
『え、ちょ、待ってwwwwwwwwww』
『なんで急に撫でたんだよwwwwwww不審者過ぎんだろwwwwww』
『腹痛えwwwwwwwwwwwww』
『佐藤さん、何してんのwwwwwwwwwwwwww』
その、あまりにも的確な、そしてどこまでも残酷なツッコミの嵐。
それに、佐藤の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「………………」
彼は、もう何も言えなかった。
**恥ずかしくなって、**その伸ばした手を、まるで雷に打たれたかのように、固まらせていた。
そして彼は、心の底から、そして魂の全てを込めて誓った。
絶対、このタコの言う事を、もう二度と実行しない、と。
その彼の、あまりにも人間的な、そして滑稽な姿。
その横で、フロンティア君は、心底不思議そうに首を傾げていた。
「おかしいッピ…!」
その声は、純粋な困惑に満ちていた。
「幸福度パラメーターが、クリティカルレベルまで低下したッピ…。データベースに、エラーがあるのかもしれないッピ…。データでは、撫で撫でされたら女性は喜ぶッピ…。あるいは、天野陽奈の個体差か…?次のパッチで、修正を要請しておくッピ…」
その、あまりにも他人事な分析。
それに、佐藤の額の青筋が、限界を超えて脈打った。
彼は、それを無視しながら、固まっている陽奈へと向き直った。
そして彼は、震える声で、そのあまりにも見苦しい言い訳を口にした。
「あ、いや、その…」
「今のは、その…なんだ…」
彼は、必死に言葉を探した。
そして彼は、全ての責任を、そのピンク色のタコへと、なすりつけた。
「陽奈に、フロンティア君が撫でろって言ったから、撫でてみただけだ。すまんな」
その、あまりにも情けない、しかしどこまでも正直な謝罪。
それに、陽奈ははっと我に返った。
そして彼女は、その真っ赤になった顔で、俯きながら、か細い声で答えた。
「…い、いえ…。だ、大丈夫、です…」
その、あまりにもぎこちない、そしてどこまでも気まずい会話のキャッチボール。
それが、二人の奇妙な、そしてどこまでも温かい冒険の、本当の始まりを告げる、合図となった。
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