第7話 経験値100%アップと、世界のバグ

F級ダンジョン【ゴブリンの巣】。

そのひんやりとした湿った土の匂いと、壁一面に自生する発光苔が放つぼんやりとした青白い光。そのあまりにもゲーム的な風景の中を、二つの不釣り合いな影が、これまでの気まずい沈黙が嘘のような、どこか穏やかな空気と共に進んでいた。


佐藤健司(35)の心は、まだわずかにざわついていた。

数分前、彼の不器用な、しかし心からの肯定の言葉。それが、目の前の少女…天野陽奈の心を解きほぐし、そして彼のSSS級ユニークスキル【盟約めいやく円環えんかん】に、二度目の奇跡を起こさせた。

至福しふくのひとさじのランクが、Dに上がりました』

『パッシブスキル:食後の優雅な戦闘が追加されました』

『効果:アイスを食べた後、その日一日の間、獲得経験値が100%アップします』


その、あまりにも暴力的なまでのバフ効果。

彼は、その本当の意味を、まだ完全には理解できずにいた。

だが、彼の魂は、このカードが、この世界のルールそのものを根底から破壊しかねない、究極のワイルドカードであることを、確かに感じ取っていた。


「…あの、健司さん?」

陽奈の、不安そうな声。

それに、佐藤ははっと我に返った。

そうだ。

この力は、まだ彼女には、早すぎる。

そして、何よりも、面倒くさい。

彼は、そのあまりにも巨大な真実を、不器用な嘘のオブラートに包み込むことにした。

「ああ、悪い。少し、考え事をしてた」

彼は、できるだけ平静を装って言った。

「その、俺のユニークスキル…【盟約の円環】ってのは、まあ、パーティメンバーの役に立つスキルを、たまに強化するんだよ。珍しいだけだ。気にするな」

「そうなんですか…?」

陽奈は、まだどこか釈然としない表情で、首を傾げた。

「でも、SSS級って…。私、配信でしか見たことないです。雷帝さんとか、詩織さんとか…」

「…まあ、たまには俺みてえな、冴えないオッサンにも、そういうのが当たっちまうこともあるってことだ。宝くじみてえなもんだよ」

その、あまりにも苦しい言い訳。

だが、その言葉には、不思議な説得力があった。

目の前の男は、どう見ても英雄には見えなかったからだ。

「…分かりました!」

陽奈は、こくりと頷いた。

その純粋な瞳には、もはや疑いの色はない。

ただ、目の前の、少し変わった、しかし誰よりも優しいこの中年男性への、絶対的な信頼だけが宿っていた。

そのあまりにも真っ直ぐな眼差し。

それに、佐藤は少しだけ、胸がチクリと痛むのを感じていた。


彼は、その気まずさから逃れるように、話を変えた。

「それより、だ。陽奈」

「はい!」

「お前、さっきのアイス、もう一回出せるはずだぜ」

「え?」

陽奈の、大きな瞳が、きょとんと丸くなる。

「そんなはずは…。私のスキルは、一日一回だけですよ?」

「いや、さっきのアナウンス、よく見てみろ。『1日1個から1日2個にパワーアップしました』って、書いてあっただろ」

「あ…」

陽奈は、ARウィンドウのログを、慌てて見返した。

確かに、そこにはそう記されていた。

「う、うそ…。本当だ…。なんで…?」

「さあな。多分、ランクが上がったからじゃねえか?」

佐藤は、とぼけてみせた。

「**ああ、パワーアップして2回出せるようになってんだ。**とにかく、もう一回出せるなら、使わねえ手はねえだろ。ほら、良いから食べな」

彼は、そう言って彼女を促した。

彼の、ゲーマーとしての魂が、叫んでいた。

この、あまりにもぶっ壊れたバフ効果。

それが、本物かどうか、今すぐにでも検証しなければ、気が気ではなかった。

「え、でも…」

陽奈は、戸惑っていた。

「今、食べちゃっていいんですか?まだ、ダンジョンに入ったばかりなのに…」

「いいんだよ」

佐藤は、きっぱりと言った。

そして彼は、その本当の理由を、彼女にだけ告げた。

「――経験値100%増えるから」


その、あまりにも甘美な響き。

それに、陽奈の瞳が、これ以上ないほどキラキラと輝いた。

「――はいっ!」

彼女は、最高の笑顔で頷くと、再びそのスキルを発動させた。

彼女の手のひらに、ぽん、と。

今度は、美しいピンク色の、ストロベリーのアイスクリームが乗ったワッフルコーンが、二つ、現れた。

彼女は、そのうちの一つを、嬉しそうに佐藤へと差し出した。

「健司さんも、どうぞ!」

「…ああ」

二人は、その氷の洞窟の中で、まるで遠足に来た子供のように、その甘く冷たい奇跡の味を、楽しんでいた。

そのあまりにも平和な光景。

それを、彼の配信を見ている三人の視聴者たちは、ただ呆然と見つめることしかできなかった。



そこから、始まったのは、もはや戦闘ではなかった。

ただ、一方的な「蹂躙」と、そして常識を超えた「成長」の記録だった。

アイスを食べ終えた、二人。

その魂には、世界の理を捻じ曲げる、黄金の祝福が宿っていた。

彼らが、次のゴブリンの群れと遭遇した、その時。

戦いの構図は、完全に変わっていた。

陽奈は、もはやただの後衛ではなかった。

彼女は、その手に握られたワンドを、ただ構えているだけ。

だが、その存在そのものが、このパーティの絶対的な「核」となっていた。

全ての戦いは、佐藤健司、ただ一人が行った。

彼は、その5万円の長剣を、まるで伝説の聖剣であるかのように、振るった。

剣を振るだけで、ゴブリンは倒される。

ザシュッ、ザシュッ、ザシュッ!

これまで、一体倒すのがやっとだったF級のモンスターが、彼の剣の一振りの前に、ただの藁人形のように、なぎ倒されていく。

彼の動きは、洗練されてはいない。

だが、その一撃一撃には、レベル1の初心者とは思えないほどの、確かな「重み」が宿っていた。

そして、その光景を、陽奈はただ息を呑んで見守っていた。

彼女の、そのあまりにも頼もしい相棒の背中を。


そうして、彼らがその広間の全てのゴブリンを殲滅し終えた、その時だった。

二人の全身を、これまでにないほど強く、そして温かい黄金の光が、包み込んだのだ。


【LEVEL UP!】

【LEVEL UP!】


祝福のウィンドウが、二人の視界に同時に二度ポップアップする。

F級ダンジョンの、高い経験値効率。

そして、何よりも、獲得経験値100%アップという、神の祝福。

それが、彼女たちのレベルを、たった数分で、1から3へと、一気に引き上げていた。


「……………」

静寂。

そのあまりにも、異常なまでの成長速度。

それに、陽奈はただ呆然としていた。

だが、佐藤の心の中は、静寂ではなかった。

一つの、巨大な嵐が吹き荒れていた。

それは、歓喜ではない。

畏怖。

そして、純粋な「恐怖」だった。


(…おいおいおいおいおい)

彼の脳内で、警鐘が鳴り響く。

(**レベル2じゃなくて、3か?**嘘だろ…?ゴブリンを、10体も倒してないぞ…?)

(早くも、100%の効果、出てるじゃん。怖いなぁ、これ)

(このペースでいったら、どうなる?一日中このダンジョンに籠もれば、レベル10、いや20まで届いちまうんじゃねえか?)

(凄い勢いでレベルが上がらないか?大丈夫か、これ??)

彼の、ゲーマーとしての、そしてこの世界の住人としての常識が、悲鳴を上げていた。

これは、もはやただの強力なスキルではない。

一つの、完璧な「バグ」だ。

ゲームの、そして世界のバランスを、根底から破壊しかねない、禁断の力。


(…世界のバランス、崩れるだろ…)

彼は、そのあまりにも巨大すぎる力の奔流を前にして、初めて本当の意味での恐怖を覚えていた。

この力が、もし世間に知られたら、どうなる?

ギルドが、黙っているはずがない。

他の、トップランカーたちが、この力を欲しがらないはずがない。

俺は、そして陽奈は。

世界の全てを、敵に回すことになるかもしれない。


その彼の、内なる恐怖。

それを、断ち切ったのは、一つのあまりにも無邪気で、そしてどこまでも能天気な声だった。

彼の視界の隅で、ピンク色のタコが、嬉しそうに飛び跳ねていた。

「レベルアップ、おめでとうッピ!」

フロンティア君は、その大きな瞳をキラキラと輝かせ、まるで自分のことのように、その奇跡を喜んでいた。

「すごいッピ、健司!**普通は、F級ゴブリンを8匹は倒す必要があるッピ!**それを、たったの4匹で!君は、やっぱり最高の冒険者だッピ!健司、凄いッピ!」

その、あまりにも的外れな、しかしどこまでも純粋な賞賛。

それに、佐藤の心の中の恐怖が、少しだけ和らいだ。

そうだ。

こいつは、何も分かっていない。

この力の、本当の恐ろしさを。


そして、もう一人。

「やったー!」

陽奈が、レベルが上がったことに、ただ無邪気に喜んでいた。

「見て、健司さん!レベル3だよ!私、強くなったんだ!」

彼女は、その場でぴょんぴょんと飛び跳ね、その喜びを全身で表現していた。

その、あまりにも眩しい光景。

それに、佐藤はふっと息を吐き出した。

そうだ。

俺が、守らなければならない。

この、あまりにも無垢な少女を。

そして、このあまりにも危険な奇跡を。


彼は、その決意を胸に、自らのステータスウィンドウを開いた。

レベル3。

クラス選択の、時が来た。

「…陽奈」

「はい!」

「お前は、どうするんだ?」

「うん!私は、魔術師を選ぶ!」

彼女は、迷いなくその道を選択した。

幼い頃からの、夢。

その、輝かしい未来への、第一歩。

「…そうか」

佐藤は、静かに頷いた。

そして彼は、自らの選択肢を、見つめた。

戦士、魔術師、盗賊、そして無職。

彼の心は、すでに決まっていた。

俺は、英雄ではない。

派手な魔法を操る、天才でもない。

影に生きる、暗殺者でもない。

俺は、ただの、サラリーマンだ。

俺の仕事は、前に立ち、リスクを管理し、そして確実に、仕事を終わらせること。

それだけだ。

「――俺は、戦士を選ぶ」

彼は、その最も地味で、しかし最も彼らしい道を、選択した。

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