第四話 穢れを祓う炎
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やがて、神官の手で、松明が投げ込まれました。
乾いた木材と灯油が一気に燃え上がり、夜空を染めるような赤い炎が、ぱちぱちと音を立てて広がっていきます。
櫓の上では、夏夜子と麻夜子が抱きしめ合いながら、さめざめと泣いていました。炎の向こうで、ゆらゆらと揺れて見えます。
僕のいた茂みと櫓の間には距離があったはずなのに、あのとき、確かに二人と目が合った気がしました。
――助けて。
そう、請われたような気がしたのです。
視界の端に、近くの井戸と鉄のバケツが飛び込んできました。火事なら水で消せる──単純な思考。でも、それが全てでした。
「……くっ、うっ!」
苔むした古井戸は深く、痩せた小学三年生の腕では、水を引き上げるのも一苦労でした。けれど火事場の馬鹿力だったのか、汗まみれになりながらもなんとか水を汲み、バケツに注ぎ込みました。重たいバケツを両手で抱え、よろよろと櫓に向かって歩き出します。
――早くしなきゃ、二人が死んじゃう。
「近づくな!」
村人たちの怒声が飛びました。櫓に近づくことは神事を壊すことだと、彼らは強く信じ込んでいたのでしょう。だから、ただ遠くから僕を叱るしかできなかったのです。
唯一、櫓の近くにいた神官、村長の息子――つまり夏夜子と麻夜子の父親だけが、僕を止められる立場でした。彼は腕を伸ばしました。けれど、一瞬双子を見上げ、そしてその腕をゆっくり下ろし、つぶやきました。「……済まない」
あれが諦めだったのか、何かの懺悔だったのか。
僕には考える暇もありませんでした。
怒号の中、僕は叫びました。
「二人とも、待ってて! 火を消したら、すぐ助けるから!」
勢いよく、全力でバケツの水を櫓にぶちまけました。
……僕は自分が何をしてしまったのかわかっていなかったのです。
最初は、何が起きたのか理解できませんでした。
音が遅れて追いついてくるほどの衝撃を受けて、僕の体が宙に舞いました。
「――」
あれは、まさに地獄でした。
もう二度と、見たくない光景です。
水が火に触れた瞬間、凄まじい音とともに蒸発し、爆発のように炎と爆風が跳ね上がりました。
灯油火災には水をかけてはいけない。薬剤入りの消火器を使うべきだったのです。
八歳の僕に、そんな知識はありませんでした。
跳ね上がった炎は燃料を四方に撒き散らし、火勢は倍に膨れ上がりました。爆ぜる炎は真っ先に僕の体を襲いました。
顔が、焼けるような熱波に包まれた感覚は、今でも覚えています。
咄嗟に目を閉じていたおかげで視力は失わずに済みました。
でも、痛みは容赦なく全身を這い、やがて感覚すら失って、僕は崩れ落ちました。
失神できれば楽だったかもしれません。でも、僕はまだ、彼女たちを助け出そうという気力を手放していませんでした。
けれど、それに反して、体はもう動かせませんでした。
ぎぎ。と軋む音が耳に届きます。櫓の柱が崩れかけている。
夏夜子と麻夜子のいる櫓が。
ぐらりと揺れました。
ふたりは、手を繋いだまま、抱き合ったまま――
燃え落ちる瓦礫のなかに、真っ逆さまに消えていきました。
がしゃん。
「……ぁ……」
そのとき。父の声が、遠くから響いてきました。
「亮平!!」
宿から駆けつけた父が、迷わず炎の中に飛び込んできました。
焼ける熱をものともせず、僕を抱きかかえて地面に転がし、火を消してくれたのです。
必死に息をすると、肺の奥が焼けるように痛みます。視界は、どこまでも赤く染まっていました。
「亮平ッ、しっかりしろッ、亮平、亮平ッ!」
炎に包まれた父の顔は、痛々しいほどに焼けただれていました。でも、その声は必死に僕を呼び続けていました。
「待ってろ、今、助けを呼ぶから! 救急車が、もうすぐ……来るからっ、だから……」
携帯電話で救急車を呼ぶ父の声。
その震えた手の温もりが、背中越しに伝わってきました。……僕は、安心しました。
意識が遠のく中で、微かにサイレンの音が聞こえたような気がして――
「亮平、頼む、絶対に、死なないでくれ!」
父の言葉だけが、強く耳に残っていました。
かすかに返事をしようとしたけど、声になりませんでした。
それが、父との永遠の別れとなってしまいました。
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