絶対音感の彼方で、君と。

Chocola

第1話

母の音を、私は知らない。

 でも、耳に焼きついている気がする。誰よりも優しく、澄んだ旋律。

 夢の中で何度も聴いた。目が覚めると、それは静かに消えていた。

 記憶ではなく、血に刻まれた音。それが、私の母の“声”だったのかもしれない。


 私は廿楽奏音(つづらかのん)。二十歳。音大の学生で、バイオリンを専攻している。

 今夜の演奏はテレビ番組の収録だった。観客のいないスタジオはやけに無機質で、照明だけが暑かった。

 私は楽譜の通りに音を置いていく。でも、その中にほんの少しだけ、母を想う気持ちを混ぜた。


 収録が終わると、プロデューサーが一人の紳士を連れてきた。


「志摩財団の会長、志摩晃一さんだ。君の演奏を聞いて、どうしても会いたいと」


 老紳士――志摩晃一は、静かに私を見つめた。

 どこか懐かしむような眼差しで、口を開く。


「君の苗字は、“廿楽”で合っているかね?」


「……はい。つづら、と読みます」


「そうか……。君は、沙也香の娘だな」


 母の名前を口にされ、私は驚いた。


「お母さんを……ご存じなんですか?」


「かつて、婚約していた女性だった。君のお母さんは、ピアノの調律師だった」


 沙也香。

 そう。私が知る、ただひとつの母の名前。

 その日をきっかけに、私は志摩家の屋敷に招かれた。



 志摩家は格式のある広い屋敷で、静かだった。

 そこで出会ったのが、晃一氏の息子――志摩透真(しまとうま)、23歳。

 落ち着いた物腰の青年だったけれど、どこか壁を感じる人だった。


「絶対音感があるんでしょ?」


「ええ。母譲りだと思います」


「“母の音”って、覚えてる?」


 私はゆっくりと首を振った。


「耳ではなく、体が覚えている気がするんです。音の癖、揺れ方、呼吸みたいなもの」


 彼はそれ以上聞かなかった。ただ、頷いただけだった。



 数日後、私は屋敷の一室でピアノを見つけた。

 古びてはいたけれど、調律は驚くほど整っていた。鍵盤をそっと押すと、やさしい音が返ってくる。


「それ……父さんが昔、ある人に調律してもらったピアノだって」


 声の方を見ると、透真が立っていた。


「……“ある人”?」


「母さんじゃない。僕の母は別にいる。調律したのは、“廿楽沙也香”って人。父の昔の婚約者だったって聞いてる」


 私は黙ってピアノに触れた。

 母の音が、確かにそこにあった。いや、もしかしたら……それは私の音なのかもしれない。


「この響き、……どこか君に似てるよ」


「……私は母の代わりじゃない。だけど、母の音を大切にしながら、自分の音を奏でたいんです」


 その言葉は、胸の奥から自然とこぼれ出た。


「……いいと思うよ。君の音、俺は好きだ」



 志摩晃一は、母との別れの理由を語らなかった。

 けれど彼がそのピアノを捨てずに残していたことが、すべてを物語っていた。


 過去に囚われるのではなく、過去と共鳴して生きていく。

 私は、母の影ではない。

 “奏音”として、私自身の旋律を奏でていく。



 帰り際、透真が玄関まで見送ってくれた。


「……また来る?」


 彼の問いは淡々としていたけれど、どこかあたたかかった。


「気が向いたら」


 私は微笑んだ。


 ――きっと、それは始まりの音だった。

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