29

 劇場の重い扉を開くと、薄暗い客席が視界に広がった。

 当然のことに観客は一人だっていない。

 そこにいたのは舞台に一人だけ。


 彼女はそこで体育座りをして俯いている。

 ボクにはそれが、まるで迷子の子供みたいに見えた。

 ボクは舞台に向かって歩いていく。


 一歩一歩何かを確かめるように、ゆっくりと進んでいく。

 そうして客席の最前列にたどり着いた。

 そこから舞台の上を見上げる。


 ボクの気配に気がついているはずなのに、麗寧は何も言わない。

 そんな彼女を見つめて、ボクは口を開けた。


「こんな所でなにしてるんだよ、麗寧」


 そうやって彼女に声をかけると、ようやく反応を示した。


「……最後だからね、君と立つはずだった場所に来たかったんだ」


 最後という言葉がボクの心をチクリと刺した。


「本当に辞める気なのか、舞台俳優」

「そうだよ」


 麗寧が落ち着いた声で答えた。


「私は俳優を辞めた方がいいんだ」

「辞めるなよ」

「……それを言うために、わざわざここまで探しに来たの?」

「そうだよ。ボクは麗寧を止めに来た」

「そうか……。しかし、無駄なことだよ。何を言われても決意は変わらない」

「なんで?」

「私に役者を続ける資格なんてないからだよ」


 麗寧は静かにそう言った。


「自分のやりたいことすらわからないのに、やりたいことのある人の邪魔なんてしたくはない。けれど……、私が舞台に立ち続ければそれをしてしまう。……君の邪魔をしてしまう。だから私は役者を続けるわけにはいかない」


 わかっていないなと思った。

 確かにボクが理想の王子様になるというのなら、必ず麗寧が大きな壁になる。

 麗寧という壁がないのならきっと今よりも楽な道を歩くことができる。

 けれどそれじゃあダメなんだ。


「……あの時。あの花火大会の夜、ボクは麗寧が憧れてくれて嬉しかった。だからボクはずっと麗寧の憧れでいたかった」


 けれどそれはもう違うんだと知った。

 憧れてほしかった人に超えられてしまっていたと気がついた。

 約束を守れないと思えて、それがどうしようもなく辛かった。


「だとしたら余計に君を傷つけていたということになる。私は責任を取るべきだ。だから――」

「違う、そうじゃないんだよ。確かにボクは辛かった。嫉妬だってした。でもそれは……、麗寧のせいなんかじゃない。ボクの、問題だった」

「しかし」

「麗寧には舞台に立ち続けてほしいんだ」

「……どうして?」


 ボクは舞台の上に上がる。

 客席から見上げて、眩しさに目を細めるだけ。

 それじゃあ麗寧に相応しいボクにはなれない。


 麗寧のそばにいたいのなら、その隣に立たなきゃダメだ。

 麗寧の正面に立つと、彼女は静かにボクを見上げた。


 その綺麗な瞳と目が合う。

 そこにいつもの眩いばかりの輝きはなく、その瞳はただ不安そうに揺れていた。


 

 ――あの時を、思い出す。


 

 幼い頃に行った花火大会。

 あの夜、麗寧はしゃがみこんで泣いていた。

 手を伸ばしたボクに、彼女は今と同じように瞳を不安そうに揺らしていた。


 あの時と同じ状況に、今ボクたちはいる。

 それならボクのやるべきことは決まっていた。


「いつか必ず、ボクは麗寧を超えてみせる。その時に麗寧がいなかったら意味ないんだよ。……そばで、麗寧に見ていてほしいんだ」


 そっと、ボクは麗寧に手を差し出す。

 

「だから麗寧にはここに立っていてほしい」


 たとえそれが険しい道を進むための選択肢になるのだとしても。

 たとえそれがボク自身を苦しめるのだとしても。

 それでもボクは麗寧を超えたいから。


 麗寧がいなくなってしまったらそれも叶わない。

 そんなのは嫌だ。

 

 麗寧はしばらく迷うようにボクとその手を交互に見つめて、やがて彼女は視線を落とした。

 けれどそれは拒絶の意味じゃなかった。


「……やっぱり、君はすごい」


 静かにそう呟いて、麗寧は顔を上げた。

 そこに不安そうに揺れる瞳はもうない。

 そうして麗寧はボクに手を伸ばしてきて、ボクの手を優しく握る。


 

 ――この手はもう放さない。


 

 ボクはその手を強く握り返した。

 そして麗寧の腕を引いて、彼女を立ち上がらせる。

 舞台の上にはボクと麗寧だけがいた。


 客席にも誰もいない。

 最低限の明かりしかなくて、薄暗い中でボクたちは向かい合っていた。

 すっと、麗寧の手がボクの頬に触れる。


 彼女の指先から確かな熱を感じた。

 薄暗い中でそれだけがボクと麗寧がそこにいるという証明のようで……。

 ボクはその熱をずっと感じていたいと思う。


 二人で舞台に立ち続ける限りそれは叶うはずだ。

 たとえ触れ合うことがなくても、その熱は感じることができるから。

 そんなふうに、思うんだ。


 麗寧はボクよりも高い位置から顔を近づけてくる。

 その唇が向かう先を、ボクは知っていた。

 ……知っていたけれどボクはそれを拒むつもりがなかった。


 これをしたらきっともう後戻りはできない。

 今までとは意味が変わってしまう行為だとわかっている。

 二人の関係性が決定的に変わってしまう、そんな予感がある。


 それでもボクは受け入れようと思った。

 麗寧の唇がボクの唇に近づいてくる。


 彼女の綺麗な瞳が。

 綺麗な顔が。

 今にも触れるような位置にある。


 ボクと麗寧はどこまでも近い距離で見つめ合う。

 彼女のその瞳に輝きが戻る。

 眩い輝きはボクの心を焦がす。



 ――ああ、そうだ。



 その輝きを見て静かに、けれど強く思う。



 ――ボクはこの輝きが見たかったんだ。


 

 この輝きに負けない存在でいたいんだ。

 そうやって麗寧の隣に立ちたいんだ。


「……君はもう、私にとっての王子様だよ」


 麗寧が熱っぽい視線でそう囁いた。

 そしてボクたちは、二人だけの舞台で――。


 

 ――そっと、キスをした。








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