第3章 藪の中

雨はまだ残っていた。

傘は要らないほどの小雨だったが、太陽の姿はまだ見えない。

えみは、どこか所在なげに歩いていた。

鞄を肩にかけ、通い慣れた道を進んでいるのに、足元が覚束ない気がする。


「笑――おーい、笑!」


素子もとこが小走りに後から追いついてきた。

いつもの元気な声。

けれど、今日は妙に遠く聞こえる。


「……おはよう。」

「ちょっと、ちゃんと聞いてた?」


いつもの笑なら、「おはよう」だけで済ませたりはしない。

だが今日は、それ以上何も言えない。


「おい、小野おの。寝不足か?」


通学路の角で合流した圭一けいいちも、呆れ顔を見せる。


「昨日の雷、怖くて眠れなかったとか?」

「……うるさい。」


ぽつりと答えただけで、笑は目を伏せた。


「……どうしたんだよ、小野。」


圭一の声に、ようやく立ち止まる。

振り返った笑は小さく笑った――けれど、その笑顔はどこか無理をしているようだった。


「ごめん……ちょっと考えごとしてて。」


そう言ってごまかすと、2人はそれ以上は追及しなかった。

ただ素子が一瞬だけ、心配そうな目で笑を見つめたことに、彼女は気づかなかった。



その日の古典演習の授業。

逆井さかい先生が「羅城門らじょうもん」を読み聞かせる声が、教室に低く響いていた。

ページの上では、物語が淡々と進んでいく。

だが、笑の目はそこを見ていなかった。


(……まだ、迷ってる。)


昨夜、動画を何度を見返した。

消そうと思った。

けれど、それが正しいのか分からなかった。


(私には、関係ないことかもしれない。

でも――本当にそれでいいの?)


映像に残っていた高木たかぎの表情が、目に焼きついている。

何もできなかった――いや、何もしようとしなかった。

そんな自分が、ただ悔しい。


ふと、開きかけのノートに何かが飛び乗った。

緑がかった腹――蟋蟀キリギリスだった。


(……え?)


瞬きをしたときには、もういなかった。

だがその違和感が、胸の中に残った。


次の瞬間、眠気が忍びるように視界が滲む。


(……あれ?)


まぶたが落ち、意識が遠のいていった。





――――気づくと、笑は暗闇の中に立っていた。

漂う腐臭と湿気で笑はそこが羅生門の楼であることをすぐに理解した。


(また……ここに戻ってきたんだ。)


やがて、視線の先に人影が浮かぶ。

腰に刀を差した男。


「⋯⋯ひょっとして、あなたは――下人?」


思わず声をかけると、人影は奥へと駆け出した。


「待って!」


慌てて追ったが、すぐに見失う。


かわりに、ぼんやりと灯りに照らされた老婆の姿があった。

黙々と、死体の髪を抜いている。


やがてその顔が振り返る。

笑は息を呑んだ。

そこにあったのは――笑自身の顔だった。


「あなたも、見逃すのね。」


澄んだ低い声が闇に響く。


「私が悪い? でも、あなたはそれを断罪できるの?」


思わず後ずさる。

だが彼女の背後には、また別の人物が立っていた。


(⋯⋯下人!?)


振り返るが顔は見えない。

ただ、その存在がじっとこちらを見ている気配だけが伝わってくる。


「……選べ。」


低く響いたその声は、逆井先生の声に重なった。


「正しさを貫くか。見て見ぬふりをするか。  

それとも――自分もまた、泥に足を踏み入れるか。」


問いは刃のように突き刺さる。

正しさとは何か。

吉川よしかわは本当に“悪”だったのか。

黙って見ていた自分こそ“悪”ではないのか。

映像は真実を映すのか、それともただの断片か。


わからない。

でも――


世界が歪んだ。

石段にいた蟋蟀が慌てて飛び上がる。

すぐに石段が崩れ、空が割れた。





――――気づくと笑は教室にいた。


(私……決めた。)


胸の奥に、静かな決意が芽生えていた。

――先生に、あの動画を見せよう。




◇◆◇◆




【次回予告】

「第4章 目を覚ました現実」


笑の前に現れた吉川は、彼女に動画の消去を迫る。

迷う彼女を庇ったのは友人・素子。

羅生門の幻と現実が重なり――“正しさ”は試される。



【作者メモ】


本章では、笑の決断が描かれる。


「誰が悪いのか?」

「本当に見たことが真実なのか?」

――“藪の中”の問いは、現代にも響くものだ。


笑の選択が、あなたならどう映るか。

ぜひ考えながら読んでみて欲しい。

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