第4章 目を覚ました現実

昼休み。

教室の窓際に立っていたえみに、声がかかった。


「……小野おの。」


ぎくりと肩が跳ねた。

振り向くと、教室の入り口に吉川よしかわが立っていた。


「ちょっと、いいか?」


断る隙もなく、笑は中庭への階段下まで連れて行かれた。

人目が少なく、教師の目も届きにくい場所だった。


「昨日のことだけどさ。」


吉川は声を潜めて言った。


「スマホ持ってただろ。……撮ってたんだろ?」


笑は答えなかった。

言い訳の言葉も、逃げる出す勇気も、どこにも見つからない。


「なあ、頼むよ。消してくれよ……な?」


言いながら、吉川は笑の肩を軽く叩く。

だがその手は、どこか力がこもっていた。

笑の背に、冷たい汗が伝う。


「ほら、別に誰かが傷ついたわけじゃないしさ。な?」


吉川の声が甘えるように、低くなる。


「……他人に見せたりしたら、お前にもいろいろ困ること、起こるかもしれないぞ?」


その言葉に、笑の表情がこわばった。


(……どうしよう。このまま従えば、きっと何も起こらない。でも……。)


ポケットの中のスマホが、鉛のように重く感じられた。


その時だった。


「やめなよ!」


鋭い声が響いた。

階段の上から、素子もとこが見下ろしていた。

息を切らし、怒りを顔に浮かべて。


「そういうの、脅しって言うんだよ? 先生に言うよ、私。」

「……チッ、なんだよ松岡まつおか。関係ないだろ。」

「関係あるよ、笑の友達だから。」


素子は階段を駆け下り、笑の前に立ちふさがるようにして吉川を睨みつけた。

小柄な身体で必死にかばう背中に、笑は言葉を失った。


スマホはポケットの中にしまったままだ。

けれど、あの時の光景は、まるで焼きつけられた映像のように、今も脳裏に浮かんでいた。

吉川の怒声と、怯えたように動けない高木たかぎ


(――これを出したら、どうなる? 私が責められるかもしれない。見て見ぬふりをしたほうが、きっと楽だ。)


ポケットの中のスマホが微かに震えた気がした。

思わず取り出して画面を見た――その上を、小さな黒っぽい虫が這っているように見えた。


(……また、キリギリス?)


目を凝らしてよく見ようとすると、そこにはもう何もいなかった。


次の瞬間、音がすうっと遠のいていった。





――――視界が暗転する。

松明の火が揺れ、笑は羅生門の楼に蹲っていた。

腰に手を当てるが、刀はない。


自分の着ているものに、違和感を覚えた。

――襤褸ぼろだった。

檜皮ひわだ色の着物。

あの老婆のものだ。


(え、わたし……老婆になってる?)


何かの視線を感じ、楼の入り口に目を向ける。

そこには、現代の制服を来た女子高生が経っていた。

顔は見えない。

だが、なぜだか分かる。

――それは「逃げた自分」だ。


「見て、見ぬふりをするのね?」


思わず声が出た。


「あなたは、どうするの?」


少女は黙って、片手を上げた。

その手にはスマホ。

画面の中には吉川の怒った顔と、高木の怯えた表情。


(正しさを選ぶ覚悟がないのなら、最初から覗かなければよかった。)


笑は目を背けそうになった。

――そのとき。


「もう行こう、笑――こんなやつ、無視しよう」


素子の声だった。





―――現実が戻ってくる。

笑は顔を上げていた。

そして、スマホをぎゅっと握りしめた。

沈黙のあと、かすれた声で言った。


「……これ、先生に見せるから。」


吉川の目が見開かれる。


「は? ふざけんなよ、お前……!」


一歩、笑に詰め寄る。

その手が笑の肩に伸びかけた――


「やめろ!」


鋭い声とともに、背後から圭一けいいちが飛び込んできた。

吉川の腕を乱暴に払いのけ、笑の前に立ちはだかる。


「何してんだよ、吉川!」

「チッ……出てくんなよ、余計なやつが。」


吉川が低く唸る。

圭一は拳を握りしめ、今にも殴りかかろうとした。


「圭一君、やめて!」


笑が慌ててその腕を掴む。

だが次の瞬間、吉川の拳が振り抜かれた。


「――っ!」


鈍い音が響き、圭一は床に膝をついた。

唇の端から血が滲む。

それでも、彼はすぐに立ち上がろうとする。


「小野……大丈夫か……。」


荒い息をつきながら、笑を庇うように腕を広げる。


「圭一君……。」


胸の奥が熱くなるのを、笑は抑えきれなかった。

倒れてもなお、自分を守ろうとする彼の姿は、心に深く刻まれていった。


緊迫した空気が張り詰める。

吉川が再び笑に視線を向け、荒い息を吐く。

その瞬間――


「そこまでだ。」


低く鋭い声が、場を断ち切った。

廊下の角から逆井先生が姿を現す。

鋭い眼差しは吉川を射抜いていた。


「……吉川。話がある。職員室まで来なさい。」




◇◆◇◆




【次回予告】

「第5章 母のまなざし」


雨の中、弟妹を庇う吉川の姿を目にした笑。胸に残る問い――「私は、あれでよかったのだろうか。」


そして翌日。応接室に呼ばれた笑の前に現れたのは、母・良子。逆井先生は彼女を「小野先生」と呼び……意外なつながりが明かされる。


母として、教師としてのまなざしに、笑は何を見出すのか。



【作者メモ】


第4章では、現実の教室での対立と、羅生門の幻想とが交錯する。

「見て見ぬふり」と「正しさを選ぶ勇気」――その狭間に立たされる笑の姿は、誰にとっても身近な問いではないだろうか。


彼女を言葉で庇おうとする素子。

体で庇おうとする圭一。

2人の友人の存在が、笑の選択をより強く揺さぶっていく……。


前作「いたづらに咲いて散って」にも登場した2人に大きな見せ場を与えてみた。

こうした経験の積み重ねが、彼らの友情をさらに深めていくことになる。

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