第2章 見てはいけないもの
雨はまだ降り続いていた。
窓の向こうに滲むグラウンド、濡れた民家の屋根。
バッグを肩にかけ、階段を下りようとしたときだった。
(あ、傘……教室に置きっ放しだった。)
ふと思い出し、昇降口から、普段は通らない校舎裏の通用門へと足を向けた。
校舎の裏には備品倉庫がある。
その横の、死角になった場所で、誰かの怒鳴り声が聞こえた。
「……ふざけんなよ。おまえ……見てたよな。」
低く、圧をかけるような声。
もう一人は、何も言い返さず、ただ震えていた。
足が止まった。
笑は壁際にそっと身を寄せ、覗き込んだ。
そこにいたのは――同じクラスの男子、
少し前から教室で浮いていた子だった。
その吉川が、別の男子の胸ぐらを掴んでいる。
その男子はやはり同じクラスの
“恐喝――?”
(そういえば……最近、盗難多いって言ってたっけ。)
ホームルームで逆井先生が注意喚起していたのを思い出す。
生徒の私物が立て続けになくなっているらしい。
(もしかして、吉川が……。)
息を詰めたまま、笑はポケットの中のスマホをそっと握った。
気づかれないように、動画撮影のボタンを押す。
カメラ越しに、震える高木の肩や、吉川の鬼気迫る表情が映っている。
画面の揺れが自分の震えによるものだと気づいたのは、後になってからだった。
「どうなるかわかるよな。お前、どうするつもりだ?」
「……。」
小声だけど、脅しつけるような強い響きだった。
高木の肩がびくりと震えた
そして震える手でポケットを探り、財布を取り出した。
(今、動いたら、こっちが巻き込まれるかもしれない。)
そんな理屈が頭をよぎる。
カメラを止めて、そっとポケットにしまう。
(……ごめん……。)
心の中でつぶやくと、笑は無意識のうちに体を動かしていた。
(逃げなきゃ。)
その一心で、彼女は足音を殺して雨の中に駆け出した。
もはや傘のことはどうでもよかった。
一刻も早くあの場を離れ、現実に戻りたかった。
その時、背中から誰かが叫んでいる気がした……。
夕方。
笑は制服のままベッドに沈み込んでいた。
天井を見つめながら、スマホを握りしめている。
画面には、怯える高木と、それを威圧する吉川の姿が映っていた。
(……どうしよう。
これって、本当に私が関わっていいことなの?)
指が、消去ボタンに触れかける。けれど、押せなかった。
(知らなければよかった。
でも……私は、見てしまった。)
どこか遠くで、雷鳴が鳴った気がした。
笑はスマホを伏せ、目を閉じた。
(明日、先生に言おうか⋯⋯。
それとも、気づかなかったふりをすればいいの⋯⋯?)
そのときだった。
窓の外で、なにかが動いた気がして振り返る。
そこにいたのは、一匹の
緑色の細い足。透けるような羽が、窓ガラスにぴたりと張りついている。
その瞬間、視界がふっと滲んだ。
(――あれ……?)
意識が、揺れる。
――――気づくと笑は、梯子の途中にいた。
(また、帰ってきたんだ。)
間違いない、あの時の門の下だ。
笑はおそるおそる梯子を上る。
そうして、首だけを伸ばして2階を覗きこんだ。
そこには幾つかの死骸が、無造作に棄ててあった。
火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。
ただ、おぼろげながら知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。
もちろん、中には女も男もまじっているらしい。
松明の火に揺られて、その中で何かが動いている。
誰かがいる。
(……あれって、老婆!?)
その老婆は死骸の髪の毛を、一本ずつ抜いている。
(やめて……やめてよ……。)
笑の心の中に怒りが湧いてきた。
(いくら生きるためだからといって、こんなことしていいはずない。
この人たちはみんな、少し前まで生きていたんだよ。
家族だって、きっと、いるはず。 悪は、許しちゃいけないんだ。)
その時、先ほど学校の玄関で見た光景が頭に浮かんできた。
(明日、あの動画を先生のところに持っていこう。吉川は、絶対に罰せられなくちゃいけない。私も、許しちゃいけないんだ。)
その時、老婆が笑の存在に気が付いた。
「おまえさんも、これが悪いことだと思うかい?」
老婆の声は枯れていた。
「死人から髪をもらって、それで
笑は震えながら言った。
「……でも、それって……盗みじゃ……。」
老婆はフッと鼻で笑った。
「生きるためさ。生きるための悪が、そんなにいけないかい?」
その言葉に、笑は凍りついた。
(生きるための悪――)
吉川のことが、頭に浮かぶ。
(あの動画を吉川に見せて脅せば…… 彼からお金を取れるかもしれない。)
笑の頭に、欲しかったものがいくつも浮かんでくる。
その時、目の前を蟋蟀が横切った。
再び意識が揺れる。
―――目が覚めると、自分の部屋だった。
手にはスマホ。
画面には、まだ動画が残っていた。
笑は、それを見つめた。
(私は……どうすればいいの?)
窓の方を見ると、さっき見た蟋蟀はいなくなっていた。
◇◆◇◆
【次回予告】
「第三章 藪の中」
授業中、ふと目にした蟋蟀に導かれ、笑は再び羅生門へ。
そこにいた老婆の顔は――自分自身だった。
「正しさを貫くか。見て見ぬふりをするか。
それとも、自分もまた泥に足を踏み入れるか。」
問いかけは鋭く笑を刺す。
少女が下す決断とは――。
【作者メモ】
今回は、笑が遭遇した二つの事件を描いている。
クラスメイトによる“恐喝”と、羅生門で髪を抜く老婆。
どちらも目撃してしまった笑は、激しい葛藤に揺れる。
「羅生門」の下人が“生きるか死ぬか”を迫られたように、
笑もまた――“見て見ぬふりをするか”、“先生に知らせるか”、
あるいは“脅しの道具に使うか”の間で揺れ動く。
その選択は、彼女をどこへ導くのか――
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