羅生門の雨がやむまで―夢見る女子高生が見た「正義」の裏側~逆井先生の国語日和~

智沢蛸(さとざわ・たこる)

第1章 雨の午後の教室

窓の外は、朝から降り続く雨がまだ止む気配を見せていなかった。

初夏の雨はどこか重たく、湿った空気が教室の隅々にまで染み込んでいる。

ときおり、遠くから蝉の声がかすかに届く。

濡れた校庭の片隅で、季節の気配だけが焦れるように鳴いていた。


天井の蛍光灯は、白く冷たい光を放っている。


東京都立浅緋野あさひの高校2年B組、古典演習の授業。

小野おのえみは教室の席に荷物を置いた。


「おはよー、雨すごいね。」


近づいてきたのは素子もとこ

笑とは中学校からの“腐れ縁”だ。

彼女の髪の先が湿気でほんのり跳ねている。


「やだもう、せっかくブローしたのに……。

で、今日『羅生門』だっけ? 芥川じゃなくて『今昔物語集』ってマジ?」


その後ろから圭一けいいちがのんびりと現れた。


「え、また読むの? あの話、1年の時やったよな……」


笑は小さく笑って、席に着いた。


(でも、今日はちょっと違う気がする……。)


――この雨のせいかもしれない。

なんだか、胸の奥がざわついていた。

「羅生門」という言葉に、心のどこかが引っかかっていた。

あの物語を読んだ時の感情が、言葉にならないまま残っている。

あの“下人”は、自分と関係ないと思っていた。

でも今は、少しだけ違うように思える。


黒板の前に立つ逆井さかい先生は、静かに教科書を広げた。

逆井たかし、35歳独身。

笑たち2年B組の担任で、国語を教えている。

普段は穏やかで柔らかな物腰だが、授業が始まるととたんに空気が変わる。

古典を語るときの声音は、どこか芝居がかっているようにも聞こえるが、不思議な説得力があり、生徒たちをいつの間にか引き込んでしまう。

あまり自分のことは話さないが、どこか影のある雰囲気が漂っていて――笑は、密かにその“過去”が気になっていた。


「今日から『今昔物語集』の巻29第18話『羅城門らじょうもんノ上層ニ登リ死人ヲ見タル盗人ノこと』をやってくぞ。

1年生の時にやった芥川龍之介の『羅生門』。あれの元ネタだ。

……ちなみに、“羅生門”じゃなくて、本来は“羅城門”だぞ。」


ざわり、と教室の空気が揺れる。


“読みにくそう”“なんか怖そう”――そんな気配が無言のまま漏れた。

逆井先生は、笑みを浮かべながら続けた。


「『羅生門』の主人公は“下人”だったが、ここでは『男』となっている。

その男が食べるものもなく、途方に暮れて、羅城門の中で一つの決断をする――

それが、この物語のすべてだ。」


その声は穏やかで、しかし芯の通った響きを持っていた。

どの言葉にも、「これは君たち自身への問いだよ」とでも言いたげな静かな圧がこもっている。


窓際の席で笑は頬杖をついたまま、視線を窓の外に滑らせていた。


(雨、止まないな……。)


けれど、その耳は逆井先生の言葉にちゃんと反応していた。

それは、何か胸の奥をかき乱すような予感を連れてきた。


「君たちは、この“男”をどう思うだろう? 哀れか? 卑怯か? それとも……自分に似ていると思うか?」


その言葉に、笑はふと顔を上げた。

先生の目が、自分を見ていたような気がした。

だが、それは錯覚だった。

彼の視線は教室全体をやさしく包むように動いていた。


(自分に……似てる?)


胸の内に、思いがけない違和感が芽生える。


「選択を迫られることが、人生にはある。

“正義”とか、“悪”とか、それすら曖昧なまま、何かを決めなきゃいけない時がね。」


その言葉が、笑の胸に微かに引っかかった。


“選ぶ”こと。

“正しさ”を、自分で決めるということ。


(私は、そんな場面にもし出会ったら、どうするんだろう……)


たとえば、友達の言い分と、自分の感覚が食い違ったとき。

たとえば、先生の話と、自分の信じるものがずれたとき。


“誰かの正しさ”じゃなくて、“自分の正しさ”で動けるかどうか……。


ふと、そんな考えがよぎって、自分でも戸惑った。

でも、それはどこか他人事じゃないように思えた。


「じゃあ、まず冒頭から読んでみよう。小野さん、お願いできるかな。」


一瞬の間があった。


「……はい。」


立ち上がった笑は、ページを開き、少しだけ息を吸って、読み始めた。


「今は昔、摂津せっつの国辺より、盗みせむが為に京に上りける男の……」


教室に雨の音が混ざる。

言葉は静かに、でも確かにその空間を満たしていった。

笑の声は淡々としていた。

けれどその瞳の奥には、ほんの小さな“予感”のようなものが、揺れていた。

まるで自分の中にも、羅城門の「門」がひっそりと立ち上がったような――そんな感覚と共に。


(この男が見た世界を……私も見てみたい。)


ページの上の文字が、だんだんと光を帯びるような気がした。

視界の隅で何かが動いた気がした。

そちらに目をやると、緑色の虫が窓枠の外に張り付いている。


(……キリギリス?)


その姿を見た瞬間、笑のまぶたが、ふっと重くなった。

音が遠のき、教室の輪郭が、霞のように溶けていく。

雨音だけが、静かに残った――。





―――笑が目を開けると、そこは教室ではなかった。


(あれ……どこ?)


薄暗い空の下、崩れた石段には長い草が生い茂り、雨のしずくが静かに落ちていた。

時折、ざあっと風が吹きぬけ、雨の飛沫が頬をかすめる。

丹塗りの剥げかけた大きな丸柱には、蟋蟀きりぎりすが一匹、じっと止まっていた。


(……ここって、ひょっとして、羅城門?)


思わず足元を見ると、彼女は藁草履を履いている。

慌てて自分の姿を確かめると、色あせた山吹色の衣に、紺のあわせ

腰には、一本の刀が差されていた。


(……私、下人?)


空気が、現実よりも濃い。

匂い、音、肌に触れる湿気までもが、妙に生々しい。


(夢……? でも、なんか、違う……。)


笑は、二階の楼へ続く梯子を見上げた。

羅城門の上層――“男”が登ったあの場所だ。

朽ちた木の隙間から、かすかな灯りが漏れている。


(私は、あそこに行かなきゃならない……。)


そう思ったとき、笑はそっと右手で梯子をつかんでいた。

左手は、腰の刀の柄を、無意識に強く握りしめている。




 

「―――小野?」


逆井先生の声が、遠くから響いたように感じた。


(え……?)


「どうした? 顔色が悪いぞ。大丈夫か?」


気づくと、そこは教室だった。

逆井先生が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「す、すみません……ちょっと、ぼうっとしてて……。」

えみ、どうしちゃったの?」


後ろの席から素子も声をかけてくる。


「また平安時代に旅して来たんじゃないの?」


圭一の軽口に、素子が「圭一、うるさい」と返す。

教室に、小さな笑いが広がった。

笑はため息をついて、正面を向いた。

けれど、あの場所で握っていた刀の重みと、湿った空気の冷たさが、まだ掌にまとわりついている気がした。


(私……どこに行ってたの?)


ふと左手を見下ろすと、そこには刀ではなく、筒状に丸めた一枚のプリントが握られていた。

その端の文字が、じわりと滲んでいる――読めないほどに。


(雨……?)


教室の窓の外では、まだ雨が降っていた。

笑の胸の奥には、静かに降る雨の音だけが、不思議な余韻のように、かすかに染みていた。


――本当に、戻ってきたのだろうか。

笑は、滲んだプリントをそっと机に置いた。

雨のしずくが、窓ガラスを静かにすべっていた。




◇◆◇◆




【次回予告】

「第2章 見てはいけないもの」


雨の放課後、笑は偶然、同級生の“恐喝現場”を目撃する。

震える指で記録した動画と、幻想の中で聞いた老婆の言葉「生きるための悪」。

――正義とは、罪とは?

少女の心が揺らぐ。



【作者メモ】


前作「いたづらに咲いて散って」に続く「逆井先生の国語日和」シリーズ第2弾。

今作ではヒロイン・小野えみが、芥川龍之介「羅生門」の世界へと旅立つ。

幻想へのトリガーとして、一匹の蟋蟀キリギリスを配した。


ーーその雨の日、教室は羅生門となった。


「羅生門」の下人同様、笑もまた教室で事件に巻き込まれる。

学校を舞台に、現実と平安時代が交差する。

羅生門の下で“正義”と向き合う時、笑の心は大きく揺れる。

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