第35話『名前』
俺達を照らす夕日は、藍田萌香の背中に隠れるように沈んでいく。
生暖かい潮風も、だんだん肌寒い風に変わっていく。
「そろそろ帰りましょうか」
思う存分楽しんだのか、藍田萌香はゆっくりこちらに戻ってくる。
「もう良いのか?」
「ええ。はしゃぎ過ぎて疲れちゃったわ。それに帰るには良い時間だし」
俺達の後ろに立つ影は、夜の空に浸食され始めている。
それに田舎寄りだからか、辺りに街灯が少なく、帰路に就くのを促してくる。
「そうだな。もう帰るか」
俺達は砂浜に置いた鞄を背負い、最寄り駅に向かった。
☆☆☆
最寄り駅に到着した。
肌寒い風が、頬を優しくなぞる。
『電車が参ります』
ホームの先頭で電車を待つ。
やがて電車が来たので、俺達は行きと同様1号車に乗車した。
『ガタンゴトン、ガタンゴトン』
行きとは反対に、月明かりが俺達の背中を冷ます。
「スッ……」
「っ……!」
線路を走る音が鳴り響く中、俺の肩と藍田萌香の肩が触れ合う。
「なあ、ちょっといいか?」
「何かしら」
「俺との距離、近くないか?」
「そう? あなたの気のせいよ」
気のせい……ではないよな。
俺達以外、車内には誰もいない。
どう考えても、藍田萌香が意図的に距離を詰めてるとしか考えられない。
それに手と手が重なり合いそうになっている。というか少し触れている。
心情は良く分からないが、とりあえず今はコイツの好きにさせてやろう。
☆☆☆
電車に揺られること1時間。
最寄り駅に着いたので、俺達は降車する。
それから改札を抜け、家路に就く。
「……」
「……」
なんか気まずいな。
表情を見ようにも、辺りは真っ暗で全然わかんねえ。
とりあえず、テキトーに話題を振るか。
「お前って、ストレス溜まった時は今日みたいに大声で叫んで発散してるのか?」
「こんなことしたの、今日が初めてよ」
「なら普段はどんなことで発散してるんだ?」
「破裂しそうなぐらい、ぬいぐるみを抱きしめて発散しているわ」
「破裂しそうって……。思ってたより、結構クレイジーだな」
「発散の仕方なんて人それぞれよ」
「そ、そうだな」
アカン。全然会話が弾まねえ。
やっぱり1日そこらじゃ、大きな傷を癒すのは難しいか。
……いやまだだ。諦めるな俺。
こういう時でも、会話をは弾ませないとナイスガイな男とは言えないぞ。
「なら、学校も部活もない日は何をしてるんだ?」
「さあね。ぼーっとしてるんじゃない?」
駄目だ。
俺にはこの空気を変えれそうにない。
コイツより大きい傷を負う前に、早くリングから降りよう。
☆☆☆
それから歩くこと15分。
互いの家に到着する。
「じゃあな姫さん。次会うのは夏休み明けか」
俺は藍田萌香に別れの挨拶をする。
あと1週間で夏休みが終わるのかと思うと、段々憂鬱になってきた。
「うん。また夏休み明けに……」
俯き、覇気のない返事が返ってくる。
「全然元気ねえけど、大丈夫か?」
「……」
今度は返事すら返ってこない。
マジで大丈夫なのかよ。
「おーい、姫さーん」
「ねえ、少し良いかしら?」
「え!? お、おう。良いぜ」
「その『姫さん』とか『お前』って呼ぶのやめてほしいのだけど」
真剣な表情でそんなことを言われる。
「どうして駄目なんだ?」
「それは……嫌だからよ」
「子供みたいな理由だな。じゃあなんて呼んだらいいんだ?」
「……名前……。私のこと、しっかり名前で呼んでほしい!」
「な、名前?」
思わず訊き返してしまった。
そういえば俺、コイツのこと名前で呼んだことないかもな。
心の中で呼ぶときも、いつも『藍田萌香』ってフルネームで呼んでるような気がする。
「と、友達なんだし、いつまでもあだ名で呼ばれるのは距離を感じるの!」
「友達だから、あだ名で呼ぶんじゃないのか?」
「あなたが呼んでいるのはあだ名じゃない。ただの二つ名よ」
確かに『白銀の氷姫』はあだ名というより異名だ。
コイツが凄いからそんな名が付けられたが、その代わり近寄りがたい存在になっている。
藍田萌香も俺らと同じ人間。
寂しい気持ちになるのも当然か。
「だからお願い。あなただけは、私のことを名前で呼んでほしい!」
俺だけ……か。
そんなことを言われたら、名前で呼ぶしかないよな。
「そういうことなら、名前で呼んでやる。じゃあな藍田。また今度」
「……違う……」
「え?」
「全然違う!」
「違うってどういうことだよ。俺しかっり名前で呼んだよな?」
「それは名前じゃなくて苗字よ!」
名前と苗字……まさかそういうことなのか!?
「いやいや、流石に恥ずくて呼べないんだが!」
「そんなこと知らない。呼ぶまで帰らせないから」
「帰らせないのは流石に……」
「むっ!」
腕を組み、不機嫌な顔で睨まれる。
これマジで帰らしてくれないやつだ。
どうしよう。
女子を名前で呼ぶのは恥ずかしすぎる。
それにクラスの奴からも絶対何か言われる。
でもあなただけは、って言われたしな。
人間苗字で呼ばれるより、名前で呼ばれた方が嬉しいに決まっている。実際俺も、他人から名前で呼ばれた時は嬉しかった。
恐らくコイツを名前で呼んでいるのは、家族と天国さんぐらいで、極めて少ない。
なら、俺もコイツのために呼んであげるべきだよな。
「……分かった。望み通り、これからお前を名前で呼ぶよ」
決心した俺は、再び別れの挨拶をする。
「じゃ、じゃあな……も、萌香!」
「っ……」
俺が名前で呼ぶと、萌香は大きく目を見開き、俺に一言だけ言った。
「うん……またね、水城君」
その言葉を最後に、俺らの1日は幕を閉じた。
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