第75話 丑三つの火走り

丑三つ。日本橋の川霧が低く流れ、蔵の板戸が冷えて鳴った。

粥所から回した合図札には「油の匂い・北西」とだけある。潮の香に混じるのは松脂と鯨油、そして紙を焦がした薄い苦さ――火付けの一団が動いている。


平九郎は木刀一本、紫苑は槍を背に、九鬼主水は棍を肩に、橋詰の影へ身を沈めた。庄次郎は背に小鍋。

(火は腹で炊け。町で走らせたら、明日の飯が消える)

胸の内でひと息、足裏を石畳に馴染ませる。


蔵の裏手、藁を巻いた油壺を抱えた影が三つ、さらに屋根の棟に四つ。黒い襷に白い小札――〈煤烏〉と呼ばれる手練れの火付けだ。

先手の一人が壺の栓を抜き、藁縄に火を移そうと火口を擦る。

紫苑が雨落ちへ滑り込み、槍柄で火口を横から弾いた。火花は湿り気に吸われ、音だけが消えた。


「道で火を焚くな。腹で焚け」

平九郎が出る。言葉より早く、二人目が短刀で喉へ突く。

一歩も退かず、“陽斬‐改”の起こりだけ。木刀の峰が刃の腹を撫で上げ、金属がわずかに鳴る。続けて“陰返‐断”、柄頭が鳩尾へ淡く触れ、男は膝を折った。血は出ない。


屋根の上、投げ鉤が二本、弧を描いて蔵戸の閂を狙う。九鬼が棍で石畳をとん、と打ち、合図。

「上に二。縄を切るぞ」

平九郎は木刀を交差させ、鉤の爪を噛ませてひとひねり――“二刀影十字”。鉄が短く呻き、爪は根元で折れて落ちる。屋根の影が舌打ちし、瓦の目地を駆けた。


「道を退け。これは御公儀の業や」

梁の陰から声。頭目らしき男が朱の手拭で口を覆い、油壺の導火を襟元に隠している。元は町火消の頭、今は恨みで動く火の遣い手・黒瀬市兵衛と名乗った。


「町の火事は面目を洗う。江戸を一度焦がせば、剣も旗も黙る」

「焦げを甘くできるのは鍋だけや」

平九郎は懐の竹筒から粕水をひと筋、黒瀬の足元へ落とした。ぬめりが石目に広がり、導火の細縄がそこを這えば、火は鈍る仕掛け。


黒瀬の目が細くなる。

「粕で火を殺すか。なら、火が粕を呑み尽くすまでだ」

屋根の影が四方から火矢を放つ。

紫苑が梁から飛び、槍は抜かず柄で羽根を叩き潰す。九鬼が棍で板戸を押さえ、落ちた火矢を側溝へ蹴り落とす。

平九郎は“飛霞‐参”。踏み替えは砂粒一つぶん、右の斬閃で壺の縁を軽く叩き、左の逆手で導火の根を払う。藁縄は「しゅ」と白く泡立ち、消えた。


黒瀬が屋根から飛ぶ。真向の一刀。

木刀と真剣が交わる寸前、平九郎は半身に滑り、“陽斬‐改”の余波だけで刃の軌を外す。

刹那、黒瀬の足裏が粕水に乗り、重心が半拍遅れた。

そこへ“陰返‐断”。柄頭が脇にやわらかく触れ、黒瀬の肩が沈む。刃は石に落ち、小さな火花が一つ跳ねただけ。


「……おのれ、火を盗むのか」

「盗らん。行き先を変えるだけや」

平九郎は庄次郎へうなずき、小鍋の蓋を外させた。

深川の蜆と葱に、潮と薄い粕。湯気がひと筋、川霧に混じって広がる。

香に押され、路地の奥から駆け込んできた町火消の半纏が足を止めた。

「うちの火場に、鍋を持ち込むたぁ……だが、匂いがよい」


黒瀬が歯噛みし、袖口から火口を出しかける。

平九郎は柚子皮をひと欠け、指でひねって火口へ落とした。酸が火種を噛み、灯は泡のように沈む。

「灯は鍋のために使え。蔵で使うな」


屋根の影がなお一人、最後の投げを選ぶ。

鉤が鍋を狙うのを見て、平九郎は鍋蓋を立てた。鉤が縁に掛かった瞬間、蓋をひとひねり。爪はまた折れて落ちる。

「蓋は刃に勝る」

影の肩が落ち、屋根の向こうへ退いた。


黒瀬は膝をつき、息を吐いた。

「火は、江戸の面目だ。消せば、わしらの居場所は……」

「面目は腹で立つ。腹が空なら、どの旗でも倒れる」

平九郎は椀を差し出した。黒瀬は逡巡し、やがて受け取る。蜆の旨みが舌に広がり、肩の張りがほどけた。


町火消の頭が前へ出て、黒瀬の脇へしゃがむ。

「おめえの腕は惜しい。火は蔵じゃなく鍋で使え。夜回りは俺たちが受ける」

黒瀬はゆっくりと頷き、折れた刃を両手で受け取った。

「刃は薪に鍛え直す。火は……鍋に譲る」


縄の先で縛られていた油壺を、九鬼が側溝へ沈めた。粕水が白く広がり、松脂の匂いは潮に溶ける。

紫苑は槍を壁に立て、庄次郎は鍋へ干飯を足した。湯気が一段高く、夜の背を温める。


そこへ、羽織をはだけた勝安芳が息せき切って現れた。

「騒ぎはどうだい」

「湯気で治まりました」

平九郎が答えると、勝は鼻で笑って椀を受けた。

「江戸は火と水で出来てる。そこへ腹が入りゃ、だいたいの揉め事は丸くなる」


日本橋の柱に小さな札が貼られた。栗皮に三行。


「火は鍋へ

刃は薪へ

面目は腹へ」


夜が明ける。川霧が薄くなり、蔵の板戸に朝の色が差した。

〈煤烏〉の影は散り、残ったのは折れた鉤と、蜆の殻と、甘い湯気。

平九郎は木刀を背に差し、心の中で静かに数える。(一夜の記録、欠けなし。次は海の向こうの風――江戸の潮で追い返す)


潮騒が遠くで鳴り、江戸の息がそっと整った。

剣は抜かれず、火は鍋で踊り、町は温い湯気で一つに結ばれていく。

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