第74話 江戸・潮の鍋
品川に朝潮が立ち、干潟の匂いが陸へ寄せていた。
京からの通い札はすでに日本橋、本所、浅草の粥所へ届き、各所で鍋の火がつく刻限を合わせている。平九郎は紫苑、九鬼主水、庄次郎と別れ、まず品川台場の裏手で大鍋の蓋を開けた。麦と少しの粕、葱の青、干し貝。湯気は潮の香をやわらげ、道行く者の足を自然と止める。
「昼までに橋場、夕べに日本橋。三つの湯気が揃えば江戸は落ち着く」
紫苑が頷き、九鬼は棍で地を指す。「見張りの足は南から。まずここへ来やす」
(なら、最初の一合はここで受ける。刃を抜かずに終わらせる手順や)
ほどなく、灰の羽織に黒脚絆の一隊が来た。講武所の助教や与力が急ごしらえで組んだ“市中取締の精鋭”。先頭の男が声を張る。
「鍋を囲む者は素性改め。怪しきは縛る」
鍋の列に並んでいた町人がすくみ、子を抱く女が後ずさる。九鬼が半歩前へ出たが、平九郎は手を上げて止め、木刀を背で確かめた。
助教二人が抜き身で前へ。片や突き、片や斜め一文字。
平九郎は退かず、“陽斬‐改”の起こりだけで刃の腹を撫で上げる。金属がわずかに鳴り、二人の握りが半拍揺れた。続く“陰返‐断”。柄頭で脇と鳩尾を淡く打てば、呼吸だけが抜け、膝が静かに落ちる。血は出ない。刃は地に触れても跳ねず、ただ木の音が一つ。
「素性は腹で分かる。湯気の前で悪さをする腹は、すぐに匂う」
淡々と言ったそのとき、脇から短筒の火花。紫苑が長柄を滑り込ませ、銃口を天へ跳ね上げる。乾いた一発は雲を突いただけで、雀が散った。
「まだやる気か」九鬼が棍で地をとん、と打つと、列の後ろで控えていた若い与力が真っ赤になり抜き身を掲げた。
平九郎は一歩踏み、木刀の角で刃の根を軽く押す。目に見えぬほどのひねりで金属がきしみ、若者の手がびくりとほどけた。
「抜きどころを間違えるな。腹が空いた者の前やない」
列が崩れかけたところへ、低い笑い声。
「なるほど。剣の前に湯気を置くのは、海の流れに似ちょる」
眼鏡越しの目が笑っている。勝安芳が羽織も帯もゆるく、屋台へ歩いてきた。後ろに二、三人の供がいるが刃は見えない。
平九郎が会釈し、勝へ小椀を差し出す。
「潮の鍋です。話は腹から」
勝は一息すすり、鼻で笑った。
「うめえ。潮が丸くなる。——で、江戸中でこれをやる気かい」
「本所、浅草、日本橋。夕刻に一つにします」
「よし。なら、わしは役所の鼻を曲げておく」
勝が与力たちを見回す。
「おめえら、今日の面目は椀で立つ。鍋を蹴ったら明日から町ん中の鼻を敵に回すぞ」
若い与力は息を呑み、刀を鞘に戻した。助教たちも目を伏せ、列の端へ退く。町人がふたたび並び直し、鍋の前にゆるい笑いが戻った。
昼、橋場の粥所。
川風が強く、幟が鳴る。ここでは“通い札”を読めぬ者のため、湯の面に三筋の葱を浮かべる印で時刻を伝えた。紫苑が鍋をかき回すと、橋のたもとに黒い影。投げ鉤がしなる。鍋ごとさらうつもりらしい。
平九郎は鍋蓋をつかみ、空へ掲げる。鉤が蓋の縁にかかった瞬間、ひとひねり。鉤の爪が折れて落ちた。
「鍋の蓋は刃に勝る」
影が迷い、九鬼の棍が地を打つ。足音は水音に混ざって遠のいた。
夕べ、日本橋。
寿司屋台が並び、酢の香が潮の匂いに重なる。勝が屋台の端で握りを一つつまみ、平九郎へ手渡した。
「腹は甘いもんばかりじゃ持たねえ。酢で締めりゃ、刃の先の血の匂いも薄まる」
平九郎も一貫受け、噛んで頷く。
(酸は熱を落とす。夜の火種にも効く)
そのとき、橋の中央で騒ぎ。
「天誅!」と叫ぶ声。覆面三人が町年寄の駕籠を取り囲み、短刀を抜いた。人波が割れ、夜の灯が揺れる。
平九郎は木刀を背から取り、踏み込まずに前へ出た。最初の一人が斜めに打つ。峰で撫で上げ、柄頭で胸を押す。二人目が突きを放つ。身をずらし、手首の脈を軽く穿つ。三人目は投げ。木刀の角が「ち」と鳴り、刃は石畳へ白い火花だけ残して落ちる。
「腹が冷えたら、名乗りなおせ」
三人は顔を見合わせ、逃げかけた足を止める。屋台の親父が気を利かせて蜆汁を差し出し、庄次郎が小椀で粥を回す。三人は息を荒げながら椀を受け、肩が落ちた。
勝が駕籠の簾を上げ、町年寄に笑いかける。
「刀で守るより、寿司と粥で守る方が安上がりで早い。……なあ」
町年寄は頷き、懐から札入れを出した。
「明日から、各町で鍋の米を回します」
勝は親指を立て、屋台の親父へ一両置く。「酢と海苔は太っ腹に」
夜風が川面を撫で、江戸の三つの鍋が同じ刻で湯気を立てた。
日本橋のたもとに、平九郎は栗皮の札を小さく貼る。
「刃より先に椀
争いより先に酢の香
火より先に潮の湯気」
紫苑が槍を壁に立て、九鬼は折れ鉤を縄で束ねて薪棚へ入れる。
「刃の次の使い道、また一つ」
平九郎はうなずき、屋台の寿司をもう一貫つまんだ。
(江戸の呼吸が整った。ここからは潮の道で京と往き来――大きな波の前に、腹で地固めや)
夜更け。
日本橋の灯は穏やかで、隊列の怒号も、刃のきしむ音もない。
湯気が高く、酢の香が軽く、その上を川風がゆっくり渡っていく。
江戸の同鍋は動き出し、剣は鞘の中で静かに眠った。
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