第76話 評定所の香札
朝の江戸城下、評定所の白壁はまだ冷たかった。
平九郎は木刀一本、袖の内に薄い札束を忍ばせて、土間の砂を踏む。札は栗皮に活字を打ち、柚子油と梅肉をひと筋引いただけの簡素な文——読むのは目ではなく鼻と腹だ。
広間の奥、勝安芳が羽織をゆるめて立つ。脇には薩摩の西郷吉之助。二人は挨拶も要件も少なく、ただ鍋の蓋を見た。評定所の縁に据えた小鍋から、白粥の湯気が静かに上がる。麦と米半々、生姜を少し、貝の出汁をきかせた。
「札は、それに重ねて読むんでごわすな」
西郷が言い、平九郎は頷いた。
「香が先、文は後。——鼻で合点できん物は、腹でも消化できん」
奥座敷の襖がかすかに揺れ、目付が二人、顔を出す。
「評定所に“札”を持ち込むとは前代未聞。……が、町の揉め事が鍋に吸い込まれたのも事実」
勝が笑い声を短く漏らす。
「なら、今日からは“前例”にしようじゃねえか。剣より先に札、札より先に湯気だ」
平九郎は札束から一枚取り、湯気の上でそっと指先を滑らせた。柚子の香が立ち、梅の酸が細く混じる。活字は三行。
刃は鍋の蓋に負ける
火は香に負ける
面目は腹に負ける
そのとき。
土間の入口で、干し藁と灯心油の匂いがふっと濃くなった。平九郎は目を動かさず、鼻で角度を測る。(北の裏口。藁束を抱えた影が三)
評定所の警固が振り向くより早く、灰羽織の男が土間に滑り込んだ。腰の短刀が細く光り、藁束の間に油壺。御用の名を着る盗人、寄せ集めの“働き”。
「評定の前に火を上げ、札も鍋も潰す算段か」
平九郎が一歩だけ前へ出る。木刀は抜かず、鞘に親指を掛けた。
先手の影が藁縄へ火口を当てようとした刹那、平九郎は“飛霞”の踏みで砂粒を一つ跳ね上げた。火花は砂に吸われ、音だけが消える。次いで二人目が抜き身の斜め一文字。
——一合で終わらせる。
平九郎は身体をほとんど動かさず、“陽斬‐改”の起こりだけで刃の腹を撫で上げた。金属が短く鳴り、斬線が半拍揺らぐ。柄頭を鳩尾へやさしく置けば、男は息を落として膝を折る。血は出ない。音は小さい。それで十分。
三人目が背から回り、油壺を投げかけた。紫苑が雨落ちから滑り込み、槍は抜かずに柄で壺の腹を受け止め、畳の縁へ転がす。九鬼主水は棍で地をとん、と打ち、蓋を手拭で包んで押さえた。油は広がらず、匂いだけが薄く漂う。
勝が目を細める。
「いまの一合、よく見えた。刃は眠ってたな」
西郷は鍋の蓋を半分ずらし、湯気を評定役たちへ押しやる。
「香が先じゃ。火も香に、刃も腹に負ける」
御用盗の頭が歯噛みする。
「札で腹が膨れるか」
平九郎は札を一枚、男の鼻先でひらりと返した。
「札は腹へ入らんが、腹は札を読める。——まずは椀を受けよ」
庄次郎が粥を注ぎ、於梅が生姜を一つまみ散らす。男は逡巡ののちすすり、肩の張りがほどけた。
九鬼は油壺を縄で括り、評定所の土間から外へ運び出す。
「これからは夜回りの油に回す。蔵で焦がす油じゃねえ」
目付の一人が膝を寄せる。
「札はどこへ貼る」
「評定所の表と、町の粥所の梁。読み方は同じ、香はその場で変える」
平九郎は丁寧に答え、一枚を柱に、もう一枚を鍋の柄の根元に貼った。湯気が上がり、活字の影が揺れる。
勝が手を打つ。
「よし。評定所は札を受ける。市中の刃傷は“粥席”で受け止める。与力どもには“素性改めより先に椀”と触れを出す。」
西郷は頷き、声を落とす。
「薩も同じ条を守る。——ただし、背中から刃を入れる輩が出たら、そちらへも鍋を持っていく」
平九郎は木刀を背で確かめ、ひと息だけ胸に置いた。(血の匂いを湯気で上書き。これで一歩)
襖の陰で控えていた書役が、恐る恐る小判形の印を持って現れた。札の端へ淡い朱が押される。だが公印ではない。粥の湯気に映るだけの朱だ。
「これでよろしい」
勝が笑い、西郷が笑い、目付も苦笑した。
外へ出ると、評定所の前に列が伸びていた。町人、与力、火消、旅姿。平九郎は鍋の蓋を外し、最初の椀を子を抱いた女へ渡す。
「二椀目は隣へ。刃は壁に立てよ」
列の端で、先ほどの御用盗の男が、刃を縄に括って肩へ担いでいた。九鬼が頷き、紫苑は長柄を壁へ立てかける。
「刃の次の使い道は薪。薪は火に、火は鍋に」
評定所の白壁がひかり、柚子の香が風に乗った。
平九郎は柱に貼った札を指で押さえ、心の内で静かに確かめる。(香の札、城下に定着。次は二条と江戸の間、文ではなく湯気で繋ぐ)
背で木刀が軽く鳴った。湯気は高く、刃は鞘で眠り、人の息はゆっくり整っていく。
評定所の朝は、粥の白い息だけを高く掲げて始まった。
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