本と魔物

 ——其処に赤い屋敷がある。重い木の色をした扉を引くと、白亜の床にはステンドグラスを思わせる鋭い形を乗せた絨毯が敷かれていて、正面に幅の広い階段。飴色の金属が蔓を模して手摺りを成しており、踊場の壁にシャクナゲの油絵が飾られている。階段の脇に通路が続いている。右手には長い廊下、左手に進むとすぐ突き当たりがあるが、一段下がった黒い木製の床に靴音を響かせると、高さのない闇に溶け込むような扉が目に入る。扉を開くには大きな鍵が必要で、鍵穴に差し込み左に回す。斜めに傾いた鍵が、奥でかたんと音をさせてその扉は開く。長らく開いていない扉なのか音は鈍く開いた隙間から土色の埃が舞う。

 扉の向こうに見える景色は日が差しているために意外にも明るい。ただし古びた机と本棚は埃に包まれていて、蜘蛛が柔らかく巣を廻らせている。窓の硝子も濁って、外の景色を曖昧にしか見せていない。本棚の上から数えて四段目にあるいやに赤い本が目につく。背表紙の文字は箔押しのようだが、これも埃に塗れてくすんでいる。引き寄せられるようにその本に近寄る。だから気付かないのだ、部屋の入口では壁に隠れて見えない右に奥まった空間に、人が一人、立っていることに———。



 そんな記憶を持って生まれてきた彼女は、時折強い圧力を感じることがあった。“其処に誰かが居る”という強い感覚と、“見付かってはならない”という緊張感が綯い交ぜになった圧力はいつ交わしたかも分からない一つのルールを引きずり出す。見付かってはならない、そのわけを。

 幼い頃はそれはもう頻繁にその“圧力”に捜されて、身を縮めて物陰に隠れ息を潜めることなど茶飯事のようだった。——けれど歳を重ねるにつれて間隔が開くようになり、十五を過ぎてからは一年間強、一度も出逢っていない。そのために、彼女は近頃図書館を訪れるようになった。物語が好きな彼女だが、記憶の中の赤い本を警戒して図書館は勿論、学校の図書室や本屋には足を運ばないようにしていたのだ。やがて「本」と「彼」が直接繋がっていないことを知り、現在は臆することなく利用できるようになった。今日もあらたな物語に出会う為、小説の棚の辺りで一時間以上歩き回っている。

 終にはその場に座り込んで気に入った本を読みはじめてしまう彼女を、誰も咎めはしなかった。利用者の殆どは声を掛けるのを面倒臭がって顔をしかめるだけに留め後ろを通っていくし、職員はいい加減諦めてしまっている。注意すると慌てて立ち上がるが、一度本の世界に入ると全く周りが見えなくなるし、そもそも読んでいる最中に声を掛てもなかなか反応しない。彼女は洋書を好むため大抵その類のコーナーに入り浸っており、人通りは少ないので大目に見ることにしたらしい。


 座り込んで読みはじめたその本が、序章を終えたくらいのときだ。ふと彼女が顔をあげる。——圧力。気付くのに数秒要したことを後悔するが、今更立ち上がってその場を離れるわけにはいかない。もう“彼”は大分近くに来ているから多分逆に見つかってしまう。反射的に止まった呼吸を極力音をたてないように再開し、そろそろと床を這って片側の棚に身を寄せた。この判断が正しいかどうかは判らない。“彼”は——


 この棚の向こう側に、居る。


 奥から歩いてきているのは感じられたが、酷く鈍い動きのようだった。下から二段目、一部の本の背が低いために頭と棚を区切る板との間にある隙間から向こう側の景色が覗く。好奇心にその隙間へ誘われるが、不安に制止されて目を逸らした。下手に覗けば見付かってしまうかもしれない。

 徐々に距離は縮んでいる。ひたすら手をついている絨毯に視線を送り、圧力が消えるのを待った。音はない。けれど足を踏み出すタイミングはまるで見ているようにわかった。そのリズムと自分の鼓動の音は全く合わず、それもまた彼女を不安にさせた。気がつけば息が止まっている。咽につかえて出て来ないような気さえする。


 圧力が一層強くなり、そのぶん身が強張る。

 すぐ斜め前にいる。

 すぐ前に来る。

 “彼”が前を、歩いて行く。


 通り過ぎたところで恐る恐る体勢を上げ、少しでも離れようと足を後ろに引く。“彼”の進行方向と逆方向に移動していく彼女の速度は非常に遅いが、“彼”の歩みもやはり同じくらい遅かった。けれど、圧力の向かう先はもう向こう側に固定されているようだった。今までも、“彼”は現れると一度歩き始めた方向にただ進むだけで、うろついたり捜すような仕種は見せたことがない。この様子ならあのまま歩いてゆき、やがて圧力は消えるだろう——そう予想をつけて、さらに距離を開けるために“彼”に背を向けた。

 その途端、ぎんと耳元で音がした気がした。目の前に何か景色が散ったが、それが何なのか判断出来るほど頭は冷静になっていない。視界から形が失せぐらぐらと脳が揺れる。ふと何処かの力が抜け、急速に世界が傾いたのを感じたときようやく自分が倒れそうだということに気がついた。

 膝が折れて、床に手をつく。見えるのは絨毯。図書館の、絨毯。

 よかった、まだ『ここ』にいる、と一瞬の安堵。けれどまだ息を吐けはしない。“彼”がこちらを見つめている。その視線は鋼鉄のような重さがあり、気を抜ける余地はどこにもない。ただ、視線は『彼女』に向けられたものではないようだった。おそらくは物音の源を辿るような、確かな目標のない視線だ。

 ——やがて、圧力は軽減した。再び彼女とは反対方向に歩みを進める“彼”の気配に、彼女はそっと振り返ってみた。棚のある隙間からちらと覗いた漆黒が、空気の流れに寄り添うようにゆらりと舞う。それは“彼”の髪だけれど、腰までの長さがあり魔力さえ秘めているような色をしている。

 やはり人ではない、と改めて思ったのを感じたが、そう考えたのは初めてのはずだった。確かに現在こそ人でないのは明らかだけれども、以前からそうであったと知っていたような今の感覚はなんなのだろう。


 “彼”は漆黒の昏い煌めきを残して、消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る