邂逅

 鉛筆と羽ペンの違いにはとうの昔に慣れてしまった。どちらが使いやすいかといえばそれは勿論鉛筆なのだし、羽ペンを使う機会なんてもう無いに等しいのだから私にとってその問題はどうでもよかった。万が一悔やまなければならないというのなら、強いて悔やむというのなら、向こうにも炭素の結合について詳しい誰かさんがいてくれれば、また別の誰かさんはもう少し物を書くことが好きになっているだろうに、とか、あるいは炭素の結合に詳しい誰かさんが私より先に存在していたなら私も少しは公務に意欲を持って取り組んでいただろうに、くらいなものだ。それにどっちみち私があの面倒臭い以外に形容すべき言葉の無い書類処理に意欲を持つことはまずありえないからやっぱりどうでも良すぎる。

 では身分の落差についてはどうかと言うと、これも正直気にはなっていない。何よりも自由が素敵すぎた。必要以上に他人の目を気にすることなんてしなくてよくなったこと(とはいっても以前は必要だったから気にしていたのだけれど)、プライベートは完全に私のものであること、脳天気にスイーツやオシャレやショッピングについて考えていても、私自身が危機感を感じない一般的な範囲なら誰彼構わず仲良くなっても、誰も咎めはしないこと。世の中の男性が殆ど恋愛対象内に入ったことなんかは蛇足だけれどとにかく私は自由。超自由。私を調合した両親が親権を握ってることとか髪ゴムの色は黒と紺はよくて茶色は駄目だという意味不明な学校の校則とか本当なんでもない。身分を持たない自分は幸せ以外のなにものでもない。

 ただしデメリットは、そこそこの大人になるまで参政権が与えられないことだと思う。もっといえばこの国が間接民主制であること。社会の様子を見ていれば打つべき手立てはわかるのに、具体的な方法を思いついても議員じゃなければ意味がない。そもそも国会に集まる議員は知らない人物ばかりで、投票するにも数日間選挙カーとの出会いがあるかないかの人柄もろくに把握出来ない状態。複数人いるしころころ変わるから誰の政策が悪くて問題が起きたのかもわからなくて、すなわち誰が次の選挙で蹴落とされるべきかもわからない。そして一度誰かが当選したらもうその誰かに国の行く末を託すしかなく、滅多に意見も出来ない。

 ならば私自身が将来議員のひとりにでもなればいいのだけれど、先述したように私は今の平凡な日々を謳歌しているし、政治がどんなに難しいものなのかは痛いほど知っているのでこれからも理不尽に文句を並べるだけのこの立ち位置で居続けたい。国民からしてみれば間接民主制にしろ王制にしろ人柄がわからないのも意見がし難いのもそこまで変わらないわけで、私が国民側に回っただけだと考えればそう苦にもならないし、向こうの国民になるという仮定をするとこちらで国民をやるより遥かに政治に関われないことは想像に難くない。ならばこの環境も随分と恵まれている。日本に生まれた私グッジョブ。そんなわけでやっぱり身分の変化はどうでもいい、むしろ喜ばしいことだった。

 食べ物についてはどうかというと、これは少し惜しい。故郷の味は懐かしむべきものであり、同時にこちらでは絶対に口にできないものだ。とはいえ平々凡々な生活をしている私が現在食べているものは以前のような品を重んじるものではなく無防備な庶民の味で、非常に親しみ易い。つまり慣れた。和洋中華すべて私の愛すべき味だ。口にいれて顔が綻ぶ、その食の幸せさえあれば生活の質は高いと言っていい。それに故郷の味はきっちり一生分食べたのだ、今生はこちらの味をきっちり食べて置かなければ勿体ない。

 また生活様式も、気品なんて言葉からは程遠くともある程度の整然さや快適さが約束されている以上暮らしにくいということは有り得ない。というか向こうにいるときにも既に薄々気付いていたのだけれども気品がないほうが暮らしやすい。文化的な面で言えばそれはもう家に上がるとき靴を脱ぐあたりからして全く違うけれど、なにしろ生活の格から違うのでそんなところむしろもう気にならない。なんだかんだ言って十五年と三ヶ月私はこちらで過ごしているのだから食事と同様、慣れてしまった。取り敢えずコルセットの着用が義務付けられていないのでオッケー。和洋折衷、現代化された家宅もそれなりに受け入れやすい。あと水洗トイレと電気を発明した人は素晴らしい。

 無宗教であることも非常に助かった。向こうにはまず「神様」という概念の発想が存在しなかった。つまり向こうも思い切り無宗教なので、もしこちらに来てやれ神様を敬えやれ念仏を唱えろなどと言われていたら今まで生きて来られなかったに違いない。本当に。何故存在するかどうかも定かではない相手に頭を垂れるのか、そこは未だに理解できない。

 というのも、向こうには魔法というこちらにしてみれば超現実的シュールレアリスムな力があった。皆が皆使える力ではなく私も魔力は持たなかったけれど、宮付みやつき魔導師曰く魔力は世界を形成するもの、つまり世界の起源イコール不意に生じた魔力で、向こうでの魔法は力が強い魔術師なら限りなく無に近いものから有を生み出すことは可能だったため、世界を形成する魔力は無から生まれたと考えられていて、というか正直私はその話についてよく理解していなかったから説明出来ないのだけれど、とにもかくにも神の存在を作り崇めるよりその魔力の大きさにただ感嘆するもしくは無から有を生み出せる程の魔術師になるためにひたすら努力と研究を重ねる「第三者と研究員」の世界、そういう訳だった。その姿勢は現在の理学世界の様子によく似ている。誰かが世界の理をより理解し、周囲の人間は相槌を打つボタンを二十前後押すだけ。異なるのは、こちらでは新しく発見された法則は教育内容に加えられるということだ。

 その魔法についてだけれど、こちらで不便でないのかと問われるとさして不便ではない。先刻も言ったように私は魔力を持たなかったし、向こうでの魔法はひたすら生産しては消えるような和と差の魔法だったので、所謂瞬間移動の魔法だとか蘇生の魔法だとかは出来なかった。この説明じゃ解り辛いだろうか。なんていうのか、つまりは………、つまり………、…私にはよくわからない。だって魔術師ではなかったのだから。それは置いておいて、魔法があろうとなかろうと 使えようとそうでなかろうと、私は学校までの道程は徒歩や自転車と公共の交通手段を駆使して行き来しなければならなくて、万が一その途中で車に撥ねられて死亡しても生き返ることは出来ず、いくら念じても首席が解答中のテストは透視することは不可能で、もし憧れの相手がいても無理矢理こちらに振り向かせることは無理なのだった。



 以上の理由で私は政治的権力を持った王女という地位を結果的にではあるけれど放棄し、異世界に転生してしまったことを不幸に思ったことは滅多にない。前世の没年齢を一歳越えてしまった現在に於いては自国の国民を憂うことも少なくなっている。その代わり新たな自国への愛着は揺るぎ無く育っていたので、まあ前世では死んだのだしその直前の事象については悪い夢でも見たことにしておこうと思うようになった。幼い頃は本当にいろいろ考えたのだけれど、なにしろ心配しているものは異世界という遥か遠くの地。今更考えたところでもうどうしようもない、過ぎてしまった過去という意識が今は強い。


 今日も現世の一日を半分以上堪能し、家路を辿る。季節は冬。心なしか色褪せて見える駅を白い息越しに見つつ人の多い広場を横切る私は、前世のことよりも進学のための願書だとか成績だとか品格だとかについて考えていた。面接くらいなら一生の大半を私より公に費やしたためか大した緊張はないのだけれど、勉学に於いては自信がない。簡単な算数、難しくても帝王学ならいい。けれど数学、物理学、外国語の領域に入ると、何しろ鉛筆もなかった世界だったから関数や物質の結合には縁がないし、英語圏が存在しない場所だったから他の学友とスタート地点は同じ。つまり前世の学習内容は丸きり役に立たない。そして私は王族でも皇族でもないので選りすぐりの家庭教師がついている訳もなく、成績はとても芳しいとはいえないものになっていた。果たしてこれは受験で通用する学力なんだろうか。

 悩むより学べ、ってところなんだろう。でもどうもそっちに気持ちがいってしまって駄目だ。あー、希望校に受かるのかしら私。滑り止めの私立校に入るのは嫌、息苦しそうだから。


 いっそ独り言を言い出しそうな不安に苛まれるまま歩みを進める。私と同じ方向に、別方向に闊歩する人々。ああこの社会人も高校生も同じ不安にかられて、結果はわからないけどこうして立っているんだな、と周囲を見回して無駄に悟ったような思考を巡らす。再び自身の不安の中に身を投じるように俯く、その寸前に制服を着崩した長身の男子高校生と擦れ違う。染色したらしい明るい髪は多分故意に跳ねさせていて、きっと受験のときはもっと大人しい髪してたよ絶対とその解放されたような姿にお門違いにも恨みを感じた——直後に違和感。擦れ違った地点から二歩程進んだところで足が止まる。何だろう、そう、たとえるなら衣更えの時期に感じるような違和感と新鮮さ。反射的に振り返った私が視界に捉えた彼は、同じようにこちらを振り返り固まっていた。

 明るい髪。“傾いた陽を落としたような”橙の瞳。私よりもずっと高いその背丈。——否、実際は瞳は日本人のものだったけれど、あの一瞬オレンジと錯覚した。加えて、彼の正体を裏付ける決定的な言葉。


「…姫様?」

「——!」


 誰だか、わかって

 わかった途端、鎖されていたものが私自身認識できないまま頭の中を駆け巡る。騎士。逃げた。終わり。帰る術。民は、父は、母は、故郷くには、

 突発的に足が彼に向かって行き、掌が目の前を過ぎる。じんとした痛みは多分、私の手よりも彼の頬を襲った筈だったけれど、彼はぽかんと口を小さく開けて目を見開いただけだった。昔からそうだ。彼は、昔から。


「こちらに居るなら、どうして私を探さないの!!」


 僅かな間をおいて、「どうも、申し訳ありません」と呟くように彼は言ったけれど、その言葉は条件反射に違いなく、申し訳なさそうには聞こえない。それよりもかつての主が今ここにいる驚きが大きすぎたらしかった。口元の締まりも悪いまま相も変わらず穴が開きそうなくらいこちらの姿を凝視している。むしろ失礼の域すら越えている様子に呆れないでもなかったが、私も私でそれを上回る感情があったので怒りの感情は散りそうになかった。ようやく自我をかき集めた彼が下らない言い訳をするから余計に。


「まさか姫様もこちらに生まれ変わってらっしゃるなんて、思いもよらなくて」

「笑わせないで! 誓いを結び直して頂戴」


 喚く私に彼は数秒動かず、最後にはどこか嬉しそうに目を細めるという、いつもの仕種をした。私を許容する優しい目。…私はこの目が好きだった。その目に、懐かしむような色も含んで彼はひざまずく。そしていつかのように、言った。


「このダルシル、如何なるときも貴女のもとを離れず、貴女に仕え、貴女を御護りいたします」

「…うん」


 一字一句違わない台詞。たとえ今までで自分を探していなかったとしても、忠誠は一片すら風化などしていないことは問うまでも無い。はじめにこの誓いをしたあとに「三年かけて考えました」と照れて笑ってみせたその言葉を、今尚覚えているのだから。

 漸く気持ちが収まり、耳から頭へ周囲の音が滑り込んで来る。それと同じペースでこちらの世界にいる現実味とそこに居る自分を認識し始め、ついでにその自分から随分浮いた行動をとってしまったことに思い至る。とても顔を上げて辺りを見回してみる気にはなれないけれど、そんなことをわざわざしなくとも痛い視線を四方からひしひしと感じている。それはどうやら彼も同じようで、頭を垂れた姿勢のまま中々動かない。だからといってこのままでは更なる視線を集めかねないので、私は「えっと」と一言添えてから手を差し延べる。


「ごめんなさい、立ってください」

「…ったく、何させんだよ突然。俺一人だったからよかったけど」

「全くです、本当にどうもすみません」


 日本は年功序列が基本。私は中学生、この人は高校生で、つまり彼の方が年上で、私はその年上を平手打ち罵倒した挙げ句ひざまずかせた。部下でも、知り合いですら無かったのに、だ。しかも公衆の面前。本当に本当に、心から知人友人がこの場にいなくてよかったと思う。叶うならば私たちを取り囲むギャラリーの中にも関係者がいないことを願う。

 しきりに謝罪し頭を下げる私と呆れたような雰囲気を纏いつつ膝に薄くついた砂を払う彼に、先ほどの光景は夢だったとでも思い始めたのか周囲の人々もぱらぱらと散っていった。その様子に胸を撫で下ろしつつ腰を伸ばした彼の様子を伺うと、彼は困ったように頭を掻いてから「シガモトキ」と誰かの名らしきものを口にした。…ああ、この人の名か。間を挟んで理解して、さらに数秒使って名前と彼の存在を繋ぐ。そうしてやっと、自分の名前も口に出来る。「畠山はたけやまひかりです」と控えめに自己紹介をすれば、向こうも向こうで間を置いてから「ああ、」と頷いた。


 前世は前世。環境や関係のお陰で、私も彼も変わらないところばかりではないし、過ぎ去った上に本来交わることのない異界の人物など、とてもじゃないが持ち込めない。現在の「私」と「彼」は前世の「私達」のようにはいかない部分があって、どうもしっくりこない。引っ叩いといてなんだけれども要は接しがたい感じが少なからずあって、もう“あれ”以上は「ベラート・ラディア」と「ダルシル・ソマエ」ではいられなかった。


 もうあちらの世界はお伽話に近いから。

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