第20話 世界の真実

 オーディンの私室の扉の前に立ったダイゴは、ゆっくりと息を吐いた。
手のひらにじんわりと汗がにじむ。昨日のことが頭をよぎる。まだ心はざわついているが、逃げるわけにはいかなかった。


 ――行くしかない。
覚悟を決めて、扉を押し開ける。

 部屋の空気は、昨日と変わらず冷たく澄んでいた。
石壁に囲まれた重厚な空間の中心で、椅子に座るオーディンがゆっくりと顔を上げ、こちらを見据える。


「……戻ったな」


 静かな声だったが、どこか昨日の残響を帯びていた。
まるで、まだ消化しきれぬ思いを押し殺しているように。


 ダイゴは一瞬立ち止まり、視線を床に落とす。
昨日の怒りや戸惑いが胸に蘇る。けれど、今は違う。昨日の感情だけじゃない。

 唇を噛み締め、目を閉じた。みんなの顔が浮かぶ。



「やっぱり……俺は真実を伝えたい」


 かすれた声が、重く部屋に響いた。


「言ったところで、何が変わる?」


 オーディンの問いに、ダイゴは顔を上げる。だが、すぐに目を逸らした。
答えなどない。それでも、引き下がる理由にはならなかった。


「わからない……でも、伝えなきゃいけない」

「何故だ?」


 しばらく黙ったまま、ダイゴはその場に立ち尽くす。
視線を落とし、口を引き結ぶ。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。


「俺は……みんなを裏切る真似は出来ない」

「裏切る?」


オーディンの鋭い目がダイゴを射抜く。


「お前のやろうとしていることは、破滅を前倒しするだけだ」


 ぐらり、と心が揺れる。
何かが足元から崩れそうだった。


 だが、それを否定するように一歩だけ前に出た。

 折れそうな心に気合いを入れるように。


「……俺はそう思わない。だから、またここに来た」


 その言葉を受けても、オーディンの表情は変わらない。
目の奥が、何かを試すように細く光る。

 ダイゴはぎゅっと拳を握った。爪が皮膚に食い込む感触。
口の中が乾く。胸の奥で叫び出しそうなものを、歯を食いしばって押し込める。


「俺たちはひとりじゃない」


 一拍。二拍。ダイゴは深く息を吸い、そしてまた一歩、オーディンに近づいた。


「俺はまだここにきて日は浅いし、全員と深く関わったわけじゃない……」


 自分でもわかるほど声が震えていた。

 それでもダイゴは続ける。


「でも、これだけはわかる。あいつらのいつも見せる笑顔は本物なんだよ。それを裏切りたくない。壊したくない」


 息を吸い、言葉を押し出す。


「あいつらとなら、真実を知ってもなお、運命を変えれる気がするんだ。……それだって“希望”なんじゃないか!」

 

 泣きそうだった。いや泣いていたかもしれない。

 ダイゴがいい終えると、オーディンは静かに、ゆっくりと立ち上がる。



「……そうか。いかにも人間的な考えだ」


 オーディンの視線はなおも冷たい。

 しかし、口角がわずかに上がった気がした。


「言葉は、時に暴力になる。その衝撃に耐えられる者だけが、それを口にする資格を持つ。そして“希望”となる存在としても」


 彼が一歩、前へと踏み出す。


「ダイゴ。お前にその覚悟はあるのか?」


 それが最後の問いだった。


 ◇◇◇


 宴は賑やかに続いていた。
笑い声が響き、杯がぶつかる音が飛び交う。


 酔いどれが踊り、談笑の声が弾む。表面上は、いつも通りの賑わいだ。


 騒がしいホールの扉が静かに開く。


 オーディンが歩を踏み出す。重厚で確かな足取りだった。


 そのすぐ前を――ダイゴは一歩、先に進んでいた。
振り返らず、目線は正面。
心に秘めた決意だけを抱えて。
足は重くとも、その一歩一歩を、噛み締めるように進める。


 視線が自然と集まる。
ホールにいる全員の目が、ダイゴへ、そしてその背後のオーディンへと向けられた。


 ざわめきは、潮が引くようにゆっくりと消えていく。
彼らの歩みだけが、確かな鼓動のようにホールに響いていた。

 ソフィアが無意識に背筋を伸ばすのが見えた。
支給係のヴァルキュリアは動きを止め、エインヘリャルたちもその場で息を潜めている。


 ダイゴは拳を固く握りしめた。


 振り返らずに、さらに一歩、前へ。
背筋は伸びていた。震えは拳の中に押し込めて。
重さはあったが、逃げ出す気は一つもなかった。


 小さく息を吸う。
喉が焼けるように乾いていた。


 ここから先は、一歩間違えば全てが崩れる。


 それでも、
言わなければ、もう、誰にも届かない。


「……みんなに、話がある」


 静寂の中で、その言葉はやけに大きく響いた。


 誰も返事はしない。ただ、全員が黙ってこちらを見ている。
ダイゴは一度、唇を結んだ。喉の奥で、何かがつかえていた。
言葉にするのが怖いのではない。ただ――それを口にすれば、もう戻れないからだ。


 心の中にもう一度問いかける。


 本当に、言うのか?
 ……ああ。もう決めたんだ。

 帰ってきた言葉は割とあっさりしていた。

 ゆっくりと、息を吐く。


「――聞いてくれ。ラグナロクについての、真実だ」


 どこからか、息を飲む音がした。
 

 その数秒が果てしなく長く感じられる。

 重い。空気が異様なほどに重い。
誰も声を上げず、動かず、まるで重力が増したかのようだ。


 胸の奥がぎゅっと締め付けられ、呼吸が浅くなる。
酸素はあるのに肺に届かない。唇が乾き、張り付く。

 ヴァルキュリアたちが表情を強ばらせ、戦士たちも杯を持ったまま凍りついている。
あの陽気なブリュンヒルデですらヤジひとつ飛ばさなかった。


 ソフィアは瞬きもせず、じっと俺を見据えている。目の奥で何かを測るように。


 頭の中に一瞬、弱気がよぎった。


 だがここまで来て後には引けない。
もし俺の存在が刃なら、その刃は貫き通す。

 皆が直感している。
この言葉の先を聞いたら、もう後戻りはできないのだと。


 喉はからからに乾いている。
言葉を吐く直前、自分の震えに気づいた。だが、一歩も引かなかった。
この場に立つのは、俺の意思。
――この空気を割ってでも、語らなければならない。
誰にどう思われようとも。


「……俺は思い出した。この戦い、ラグナロクの“結末”を」


 言葉を吐くたびに心が削られるような感覚が走る。


 一つひとつが刃のように胸を刺す。
投げつけるたび、自分の胸にも深く刺さる。

 誰も何も言わなかった。反論も否定もなく、ただ沈黙。


「お、“思い出した”って……なんだ?」


 どこからか、かすれた声が漏れた。
それでも誰一人視線を逸らさなかった。
まるで目を背ければ何かが壊れてしまうと知っているかのように。

 喉が鳴る。空気はさらに重くなり、口の中が乾いて舌が貼り付く。
それでも声を絞り出す。


「……世界は、終わる」


 たった一言だったが、それだけで十分だった。
静寂の中、時限爆弾が音もなく動き始めるような気配。


 その時――ラースが立ち上がった。
椅子が軋み、音が耳に刺さる。


「どういう意味だ?」
低く確かな怒気がこもった声。



「言ってみろ!!」


 怒気が刃のように全身を切り裂く。
ホール全体が息を呑む。
この男なら、本気でやる。
それだけの凄みがあった。


 ダイゴは目を強く瞑った。
腹を括った。焦りでもヤケでもない。


 ただ、「ここで決着をつけなきゃならない」と強く思った。

 胸の奥が痛い。
言葉にするたびに胸の中にあった希望のかけらが崩れていく。
でも、それでも言わなきゃならなかった。


「……神々の軍勢は、戦いに敗れる。戦士も、ヴァルキュリアも、オーディンも。ここにいる全員が、死ぬ」


 言った瞬間、自分の中で何かが砕けた。


 それが理想か、信頼か、希望かはわからない。
ただ、心のどこかが確実に折れた。

 それが神々に与えられた運命。北欧神話の結末。



 空気が弾けた。


「は……?」


「何言ってやがる……!」


「ふざけてんじゃねえぞッ!!」


 ホールの空気がぐらりと歪んだように感じた。


 音、視線、怒りが入り混じる。

 だがそれは単なる混乱ではなかった。そこにあったのは――“否定された”という怒りだった。

 ラグナロクが来ることは誰もが知っていた。
最初からわかっていた。
だから選ばれた。
だから戦いに身を投じる意味を見出してきた。


 なのに。


「……敗れる、だと……?」


 誰かからぽつりと漏れた声は、自分自身を疑うような揺れる響きだった。
自分たちは無駄な戦いに身を投じているのか?
 死ぬとわかっていて笑っていたのか?
 希望なんて最初からなかったのか?
 そのすべてを、たった一言で否定した。


「ふざけるなッ!!」


 ラースの声が空間を裂いた。


 椅子を蹴り飛ばし、床を踏み鳴らし前へ出る。
目は血走り、呼吸は荒く、拳は火を噴きそうだった。


「俺たちは、勝つためにここにいる!!」


 怒鳴る声が痛みのように響いた。
ヴァルキュリアもエインヘリャルも誰も止めない。
それは彼だけの怒りではなかった。


「冗談じゃねぇ!!」


 吐き捨てるような声。


 全身から怒気が噴き出す。


 だが、その拳が振り上がるより早く――


「ラース」


 場を割ったのは低く重い声だった。


 オーディン。
その名の響きだけで空気が一瞬凍る。

 ラースの足が止まった。


 ギリ、と床板を削る音。
本能が主の声に従えと命じていた。
だが、今回はその命令に従いきれなかった。


「……なんでこいつを庇う!」

 噛み殺すような問い。

「俺を……俺たちを全部否定したんだぞ!」

 胸の内が焼けつくようだった。

「そんな奴の言葉を、あんたは止めなかった……いや――」


 言葉が切れる。

 ダイゴとオーディンを見る彼の目が、かすかに揺れる。


 より鋭い疑念が唇を震わせた。


「まさか……あんたも――知ってたのか?」


 その言葉はホール全体に波紋のように広がった。


 誰も言葉を返さず、オーディンから目を逸らさない。


 ソフィアすらわずかに息を呑む。

 オーディンは黙っていた。
怒りも否定も肯定もなかった。
ただ目を閉じ、静かに佇んでいた。
その沈黙が何より重かった。


「嘘……だろ!」


 ラースが吐き捨てるように言った。
怒りを超えた悲しみに近い声だった。


 自分たちは騙されていたのか?
 それとも信じたくなかっただけなのか?
 答えのない問いが場を支配していた。


「……オーディン……様……」


 ソフィアの表情が音もなく壊れていくのがわかった。


 そう、これがオーディンの言った“暴力”だった。
真実という刃は希望を切り裂く。
 それをわかっていながら、俺は今、それを振りかざしている。


 誰も動かなかった。


 怒り、戸惑い、疑念が渦巻く中でホールは一瞬奇妙な静寂に包まれた。まるで爆発の直後の無音のようだった。


 その中でダイゴは一歩前に出た。
足は震えていたかもしれない。

 視線が一斉に向けられる。
憎悪でも殺意でもない。もっと深く冷たく突き刺さる眼差し。
“裏切り者”、いや、“希望を壊した者”。

 そのすべてを浴びながら、俺は口を開いた。


「……これだけは言わせてくれ。オーディンは――みんなを騙そうとしていたわけじゃない」


 空気がわずかに動いた。


 誰かが小さく顔をしかめ、意味を測りかねている。


「……全部、何もかも知った上で皆とともにいる。運命を変える希望として」


 語るごとに胸がきしむ。
言葉がナイフのように自分の中を裂いていく。
沈黙が広がる。


 だがそれは、ただの静けさじゃない。
明らかに何かが揺れ始めている。


「どれだけ孤独だったか……俺には痛いほどわかった」


 誰かの肩が震えた。


「俺も知ってしまった。この絶望を。最初は言う気なんてなかった。飲み込んで、見なかったことにして、黙っていようと思った……」


 誰かの息遣いが変わった。


 わずかに、ほんのわずかに――風向きが動いた。


「でも、無理だった。事実を知って黙っていることが、俺にはできなかった」


 喉が痛い。
だがもう止められない。


「だから、言った。全部壊した。みんなの誇りも、築いてきた絆も、信じてきた道すら――」


 手は震えている。



「わかってる。俺が言ったせいで全部が瓦解した。責められて当然だ」


 一歩前に踏み出し、視線をまっすぐ向ける。


「それでも、ここで言う。オーディンは最後まで――誰よりもみんなを信じていた!
 だからこそ、この真実を受け止めてほしい。ここから、俺たちは始めるんだ! 運命を変える戦いを!」


 静寂の中に、新たな覚悟が満ちた。


 ラースがわずかに拳を解き、顔を上げる。


 
「……オレはまだ許してねぇ。けど……お前が逃げずに立ってるのは、見りゃわかる」


 その声が場を染めていく。
怒りと困惑の渦中にあっても、少しずつ希望の種が根を下ろすように。

 俺は深く息を吸った。


「“知らなかった”まま戦うのは終わりだ。今度は、知った上で――共に戦う」


 視線が、剣を握る手が、確かな意味を帯びていた。


 今までとは違う、ここからの戦いが始まろうとしていた。


 沈黙が続く重い空気の中、ブリュンヒルデはそっとダイゴを見つめていた。


 その視線は決して敵意でも嘲笑でもなかった。どこか、かすかな敬意と期待が混じっていた。


 そして、誰にも聞こえないように、ほんの少しだけ、低く呟いた。


「……少しは、カッコよくなったじゃねーか。童貞」


 その言葉は、誰の耳にも届かず、ただ静かに空間を漂った。
ダイゴは気づかなかった。けれど、ホールの空気は、わずかに和らいでいた。

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