第19話 答え

 風が吹いていた。
 高く伸びた木々の間を、どこか遠慮がちな風が通り抜けていく。中庭のベンチに、ダイゴは座っていた。

 背もたれに体を預けるでもなく、かといって前傾姿勢でもない。
ただ、腰を下ろしているだけ。手元には何もなく、目の焦点も曖昧だった。


 何かを考えていた――はずだ。


 けれど、それが何なのか、本人にもよくわからなかった。
ぼんやりとした焦燥。言葉にならない苛立ち。
重くのしかかる、無数の「答えのなさ」。


 空を見上げる。雲はゆっくりと流れていて、どこまでも他人事だった。

 ――そうやって、どれくらい経っただろう。


「……おーい、いたいた」


 軽い声が、背後から飛んできた。


 声を聞くだけでわかる。ブリュンヒルデだった。

 ダイゴが振り返ると、彼女はいつもの調子で歩いてきた。


 何かを抱えている様子もなければ、深刻な顔もしていない。
ただ、昼下がりにぶらっと通りかかったみたいな、そんな足取り。


「……まさか、お姫様を待ってたり?」


 そう言って腰を下ろしたブリュンヒルデは、両手を頭の後ろで組み、空を見上げた。胸当てが、空を映してきらきらと光る。

 鎧のくせに面積が少なすぎて、防御力よりも視線の引力の方が強そうだった。


「てかこの中庭、いつ来ても風が気持ちいいよなー。仕事さぼる場所ランキング、堂々の一位だわ」


 ダイゴは応えない。けれど、完全に無視してるわけでもない。
その曖昧な反応に構わず、彼女は言葉を重ねる。


「さっきさー、クララにエッグタルト取られて泣いてた子、いたんだわ。あいつな、タルトの気配だけは異常に察知する。あれ絶対、食い物レーダー埋まってるっしょ?」

「……クララが?」

「そう。てかもう“食いしん坊万歳”って字、額に刺青した方がいいんじゃね?」


 ようやく、ダイゴが小さく吹き出した。
目の奥の沈みは消えていないが、それでも少し、呼吸が楽になったように見える。


「……相変わらずだな、お前」

「ん? 天才のこと? それとも美少女?」

「お前の脳は、タルトでできてんのか」

「違う違う。筋肉でできてる」

「そっちは信じるわ」


 やっと、会話になった。


 ほんの少し、空気が流れ出す。

 風が枝を揺らす音だけが、しばらく響いていた。


「……で?」


 不意に、ブリュンヒルデが言った。


 声の調子は変わらない。軽いまま、でも視線は少しだけ探るような色が混じっている。


「何がだよ」

「いやさ、タルト泥棒の話は導入で、ここからが本題じゃないの? みたいな空気、出してるっしょ?」

「気のせいだ」

「ほーん。じゃあ今日の献立でも真剣に考えてた? さすがだな、ストイック系料理人」


 ブリュンヒルデは「よっ」と体制をあげて座り込む。

 探っているのか、ただ喋っているのか――その境界がわからない。

 でも切り出すタイミングとしては絶妙だった。

 ダイゴは、小さく息をつく。


「……悪い。ちょっと考えごとがあってな」

「ふーん」

「……」

「ふーん、しか言わねえのか」

「いや、深くは聞かねーって意味での“ふーん”な。つか逆に言えば、“話したけりゃどうぞ”って空気でもあるから、誤解すんなよ?」


 言葉のチョイスは軽いけれど、目線は真っ直ぐだった。


「……たとえばの話なんだけどさ」


 ダイゴが言ったのは、彼女が枝をいじる音が一瞬やんだその隙間だった。


「はい来たー」

「茶化すなよ」

「茶化してないって」


ニヤついてるブリュンヒルデの顔が見えそうで、ダイゴは視線を自分の膝に落とした。


「ただの――まあ、話」

「はいはい。“たとえば”の話ね。OK、何かしらの比喩の話。愛してやるよ、たとえばくん」


 ブリュンヒルデは再び芝に寝転び、両手を枕にしながら軽口を飛ばす。

 脚を組み替えた拍子に、腰の装甲がかちゃりと鳴った。

 見えそうで見えない三角地帯。彼女は慣れっこらしい。


 ダイゴはそれをスルーし、淡々と続けた。


「もしさ。誰かが――とてつもない未来を知ってるとして。それはもう、誰にも信じてもらえないような、最悪の未来だとしてさ。そいつは、それでも全部ひとりで抱えて、誰にも言わず、最善を尽くそうとしてる。……そんな状況、どう思う?」


 風が吹いた。ブリュンヒルデの紅い髪が、ふわりと宙を舞う。


「それ、長くね?」
 


 彼女は、めんどくさそうに目を向ける。


「……それは、“全部抱えること”が最善って思ってる感じ?」

「そう。誰にも頼らず、弱さも見せず、自分一人が犠牲になることも含めて――“それが自分の役目だ”って考えてる」

「そいつ、めちゃくちゃカッコつけじゃん」


 即答だった。


 けれどその一言に、皮肉と優しさと、何より痛みの共感が混ざっていた。


「……やっぱカッコつけてるよな、そいつ」


 ダイゴは少しだけ笑った。


 自嘲混じりの、でもどこか救われたような笑みだった。


「でもな、そいつにとっては、それが正しいって思える理由があるんだよ」

「理由?」

「誰かを巻き込むより、自分が全部やった方が、マシだから。誰かに真実を告げて、絶望させるくらいなら――自分だけが知っていれば済む、って」


 ブリュンヒルデは視線を空に向けたまま、ぽつりとつぶやいた。


「優しいな、そいつ」


「優しいのか、臆病なのか……」

「まあ、どっちもあるんじゃね? でも――少なくとも、孤独にはなるよね。絶対に」

「……ああ」


 静かだった。


 中庭の風の音と、鳥の声。


 それ以外、何もない。


「それで、たとえばくんは。どう思うんだ?」


 ブリュンヒルデが問うた。
声は柔らかく、でも逃がさない芯があった。

 ダイゴは――少しの沈黙のあと、ゆっくり答えた。


「わからない」


 それは、はっきりとした“不安”の言葉だった。
でも、だからこそ――初めて誰かに見せた、本音でもあった。


「そっか。わかんねーか」


 ブリュンヒルデは、ころんと寝返りを打って横向きになった。
肘を立てて、その手のひらに顎を乗せる。


「んじゃさ、そーゆーときは――とりま、寝る! これに限る!」

「……寝る?」

「そ。だってさー、寝て起きたらなんか変わってるかもしんないし? どーせ悩んだってすぐ答え出ねーじゃん?  だったら脳みそ休ませとこーぜ、って話!」


 重い空気に、あえて適当そうなことを言ってくる。
でもそれは、“無理に背負うな”という彼女なりの伝え方だった。


「……お前、バカにしてんのか?」

「してねーし。てかむしろ、めっちゃ真面目に言ってんだけど?  これは立派な“ギャル式人生哲学”です」


 そう言って、ブリュンヒルデは悩みなんてないって顔で笑った。

 が、すぐに声のトーンが落ちる。


「でもまあ――あーしだったら、言ってほしいけどね」

「……」

「たとえば、誰かが“ひとりで全部抱えるのが最善”って思ってたとしても。それでそいつが潰れんの、見てらんないっしょ。自分が信じてる人に“信じてくれ”って言われたら――あーしは信じるよ。……たとえばの話でも、ね?」


 ほんの少し、まっすぐな言葉が差し込んだ。

 ダイゴはその視線から目を逸らし、短く息をついた。


 何も言い返さなかったけれど、胸の奥が静かに熱を帯びていた。


「んじゃ、今日はこのへんで勘弁してやるわ」


 ブリュンヒルデは勢いよく立ち上がり、伸びをした。


「まあ、あんたも“ギャル式人生哲学”で乗り切れよな」

「……ああ、ありがとう」


 ダイゴは小さく頷いた。

 ――伝えるべきか。


 あの男の言葉。
黙って背負うことが最善だと言い張る、その重さ。

 けれど、俺は違う。
ただ黙っていることが、本当に“最善”なのか?

 誰かに伝えることで、何かが変わるかもしれない。

 ……変わらないかもしれない。


 ダイゴは両膝に手をついて、息をついた。
じわりと立ち上がる。
重い腰が上がるたび、胸の奥にこびりついた迷いが、少しずつ剥がれていくようだった。


 ◇◇◇


 湯気が立ち上る鍋のそばで、クララが真剣な顔をしてスープをかき混ぜている。その横ではノラが手際よく野菜を刻み、テンポよくまな板にリズムが刻まれていく。
 音も手も止まらず、だが慌ただしさはない。きちんと整っていて、必要な言葉だけが飛び交っていた。


 厨房の空気は、以前よりずっと落ち着いていた。
慣れた動きと、ちょっとした余裕。ほんの数週間前まで「初心者集団」だったとは思えないほど、皆が持ち場を理解し始めていた。


「ノラ、その火加減、あと少しだけ下げて。焦げそうだ」


 ダイゴが声をかけると、ノラは無言で頷き、すっと調整した。もう、細かく指示しなくても通じる。任せられる範囲が、確実に広がっている。

 クララも、いつの間にか味の調整にまで口を出すようになっていた。


「ねえ、ダイゴ。これ、もうちょっと甘み出したいんだけど、なに足したらいい?」
「甜麺醤てんめんじゃんひとさじ。入れすぎんなよ?」


 いつもどおりのやりとり。でも、その“いつも”が、ダイゴにはちょっとだけ、胸に来た。


「……あれ? ダイゴさん、ちょっと寂しそうな顔してない?」


 クララが首を傾げてのぞき込む。


「そうか? クララが勝手に育つから、俺の出番が減ったなーって思っただけだ」
「それってつまり、私が優秀ってこと? すごい!!」


 得意げなクララに、ノラがちょっとだけ頷いて、鍋の蓋を閉じた。

 イングリッドも無言で出てきて、スープの香りを嗅いだあと、一言。


「あら。今日のメニューも期待して良さそうね」


「ま。俺が教えたからな」

「違う! 私が優秀だから!」


 ダイゴの前に割り込むようにしてクララが胸を張った。

 得意げにひらりとリボンが揺れる様子にイングリッドは肩をすくめて、ジョッキを並べ始める。

 盛りつけの準備をしていると、扉が勢いよく開いた。


「やっほー! 今日のメシ、あたしの分もちゃんとある? ないなら怒るよ?」


 ブリュンヒルデが明るく言いながら、ひょいと厨房に顔を出す。相変わらず場の空気を一瞬で塗り替えるエネルギーは健在だった。しかも、エプロン姿。


「今日は盛りつけだけ手伝ってやるから。手抜きじゃないよ、サービス!」

「はいはい、助かるよ」


 ダイゴが応じると、彼女は冗談っぽくウインクしながら、皿を運ぶテーブルへ向かった。

 やがて、ソフィアも現れる。相変わらず背筋は真っ直ぐ、無駄な動きの一切ない完璧なフォームで入ってくる。


「献立の構成、今日も問題なし。栄養バランス、兵站的にも合格」


 一礼こそしないが、その一言が何よりの称賛だと、皆が知っていた。


「ありがとよ、委員長」


 ダイゴの軽口に、ソフィアはぴくりとも反応しない。ただ、口元がほんの少しだけ緩んだ……ような、気もする。


 まもなく、戦士たちが食堂へと集まってくる。武具を脱ぎ、身を清め、腹を空かせた連中がわいわいと談笑しながら席につく。その表情に、かつての距離感はもう見えなかった。彼らはすっかり“常連”の顔だ。


「お、今日のスープ、いい香りだな」

「この魚の焼き加減、最高じゃね?」

「マジで地上より飯うまいってどういうことだよ。死んでよかったまであるぞ」


 無遠慮な感想、褒め言葉、素朴な歓声。


 誰かが言った。
誰かが笑った。
それだけのことが、妙に嬉しかった。


 ダイゴは、湯気の向こうで笑い合う彼らを見つめる。厨房では、クララが次の料理の準備に取り掛かり、それをノラが静かに手伝う。

 ソフィアは帳簿のチェックに移り、ブリュンヒルデは勝手に座って何か摘んでいた。


 全部、いつもの光景だ。
でも、ほんの少しだけ、違っていた。

 成長していた。


 変わっていた。


 そして、繋がっていた。

 誰かが、彼を必要としていた。
ただの料理人じゃない。ここにいる、理由として。


 ダイゴは、厨房の隅で静かに背を壁に預けた。


 戦士たちの笑い声が、遠く波のように押し寄せては引いていく。

 最初は、どう接していいかもわからなかった。
生と死の狭間に立つようなこの世界で、俺のやることなんて“飯を作る”くらいしかない。


 それが、今ではどうだ。

 クララは俺のレシピを写してノートを埋めている。
ブリュンヒルデは、相変わらずの調子でふざけながら、包丁の使い方は真面目に覚えた。
ノラの手際は、もはやプロの域だ。
ソフィアだって……まあ、笑いはしないけど、口出しは減った。

 それにみんなだって――


「俺が来て、運命は変わったのか……」


 小さく呟いたその言葉に、誰かが「変わったよ」と返してくる気がした。
ありえない。でも、そんな気がした。


 だからこそ
。だからこそこの仲間にだけは、嘘をつきたくない。

 純粋にそう思った。

 たとえそれが、破滅の運命であっても。

 そして運命をみんなで変えようということも――。


 その時、どこからか鍋の焦げる匂いが漂ってきた。


「クララーッ! また火ぃ強すぎるぞー!」


「ひゃーっ、ごめんなさーいっ!」


 そのやり取りに、厨房全体が笑いに包まれる。


 ダイゴも、思わず笑った。

 終わりは来るかもしれない。

 でも、それまでは――俺たちの時間だ。

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