第18話 孤独の理由
紅茶の香りが、まだ鼻に残っていた。その匂いだけが、記憶の底にいつまでも沈殿してた。 消えそうで消えない。まるで、「何か大事なこと」を忘れかけたときの違和感みたいだった。
ラグナロク。
その言葉を聞いたとたん、頭の奥がズキリと疼いた。
何かで見た気がする。確かに聞いたことがある。 でも、思い出せない。いや、思い出したくないだけなのかもしれない。 理由なんてない。ただ、その音に、どうしようもなく怖さを感じる。喉が渇いて、背中がじっとりと汗ばむ。
……考えるな。 考えすぎると引きずられる。 足元が崩れて、何か大事なものまで引きずり落としそうな感覚。
だから俺は、日常を続ける。今までと変わらない日々を。
ブリュンヒルデに初めてあった時の言葉が蘇る。
(そんでなんでも“わかるー”って顔しときゃいいのよ)
そう、何も異変なんて起きていない、そういう顔をしていればきっと大丈夫だ。
◇◇◇
「――よし、下ごしらえ終わってるか?」
「っしゃー! 今日のあーしは一味違うぜ! 昨日のうちに全部やっといたー!」 「おお、どうした。気でも狂ったか?」
「そこ、褒めるとこじゃね? せめて“成長したな”とか言えよ!」
「はいはい、成長したな、“仕込み妖怪”」
「殺すぞ」
軽口が飛ぶ。笑い声が響く。
鍋の音。包丁のリズム。焦げかける匂い。
「あああ焦がしたぁぁぁ!」
「フライパン振り回すな!」
「だってがんばったのにぃぃ……!」
「次はもっと頑張ろうな。クララ」
笑える。笑えている。そういう空気を、ちゃんと作れている。
これでいい。 俺はここにいる。仲間たちと。騒がしい厨房の中で。 そう、これは“いつも通り”だ。――いつも通り、であるはずだった。
だが、鍋の縁がふらりと揺れて見えた。
違う。揺れてるのは俺の方だ。
「……あれ?」
この既視感。前にもあったよな。
なんだったっけ?
鍋を持つ手が、少しずつしびれていく。
湯気の熱さが、遠のく。指先の感覚が曖昧になる。
視界の端が、白く擦れた。まるで古いフィルムが焼けるように。
「ちょ、え? ダイゴ? 顔色ヤバくね!?」
ブリュンヒルデの声がした。でも、返事が出ない。 声帯の動かし方を忘れたみたいだった。
動け、と思うのに、身体は動かない。
頭の奥で、また声が響いた。
――“ラグナロクは、必ず訪れます。”
「っ……!」
ガシャァァン!
皿の落ちる音。誰かの叫び。
視界が、強引に横倒しになった。音も色も、遠ざかる。
意識が落ちていく最中、鼻先にまだ残っていた。
あの、紅茶の香り。 さっきまでいた“いつも通り”の証拠みたいに。 あるいは、もう戻れないものとして。
◇◇◇
静寂があった。
時間が止まったような、ただの空白。
次に意識が浮上したとき、ダイゴは天井を見ていた。
白い天井。見覚えのある部屋――厨房脇の仮眠室。
どうやら、誰かが運んでくれたらしい。ベッドのシーツがやけに冷たかった。
頭の中で何度もリピートされるあのワード。
“ラグナロク(終末戦争)”。
俺は今、はっきりと思い出していた。
小さい頃、図書館で手に取った表紙の色あせた『世界の神話集』。
その中にあった北欧神話。
オーディンが死に、神々の軍勢は破れ、炎が焼き尽くす。
そして最後は全てが無に還る。 世界が終わる物語。滅びの記録だった。 それを、“今さら思い出した”。
オーディン。ヴァルハラ。ヴァルキュリア。
これだけ要素が揃ってて、ただのファンタジー“みたい”な世界としか考えてなかった。
でも、そうじゃない。
これは、北欧神話そのものだ。
俺は、あの物語の中にいる。どこか似ているなんてレベルじゃない。
これは、そういう“現実”だったんだ。
「……クソッ……なんで、なんで今まで気づかなかったんだよ……」
喉の奥から、絞り出すような声が漏れた。 誰もいない部屋で、ダイゴは声を殺して泣いた。 息を吸えば吸うほど、胸の奥が締めつけられ、頭が痛くなる。涙が頬を伝うのを止められなかった。
何も知らず、笑っているやつらがいる。 あの厨房の空気も、ブリュンヒルデの明るさも、クララの必死さも。 全部、全部——消えてしまう未来だった。
言えない。言えば、壊れる。 でも、黙っていたって……どうせ壊れる。 ならば、どうすればいい。 考えても、答えは出ない。だからこそ、余計に、怒りがこみ上げてくる。
オーディン。 名前を思い浮かべた瞬間、どこか胃の裏側がムズ痒くなるような、妙な感覚に襲われた。 この世界の主にして、唯一、ラグナロクの結末を知っている存在。 本にはそう書かれていた。
それなのに、彼は今も何も語らず、ただ黙って戦士たちを集め続けている。 まるで知らぬふりを決め込んでいるかのように。
腹が立った。が、同時に疑問も浮かんだ。
どうして、黙っている? 戦士たちは、これを知っているのか?
——いや、知るわけがない。あの食堂の、あの空気を見ればわかる。
ブリュンヒルデのあの笑いに、クララのあの眼差しに、嘘はなかった。
だったら、なぜ。
オーディンは一体何を考えているんだ。
真っ当な理由がなければぶっ飛ばす。あっても、納得できなければぶっ飛ばす 。
けれど、それでも一度は聞いてやる。 そう思ってしまった自分が、悔しい。 それだけの価値が、あの男にはあると——どこかで信じていたからだ。
ふらつく足で、ダイゴは立ち上がった。 扉の外からはまだ騒がしい音が聞こえていたが、もう耳には届かなかった。 いま、向かうべき場所はただひとつしかなかった。
この世界で唯一、同じ地平を見ていたかもしれない、たった一人の男。 もし、そうでなかったとしたら——そのときは容赦しない。
ダイゴは拳を握りしめ、まっすぐに歩き出した。
◇◇◇
オーディンの私室は、静かだった。
外の喧騒が嘘のように、しんと静まり返っている。 厚い扉の前に立ったとき、ダイゴの中では、もう答えが出ていた。
――聞く。 そのうえで、納得できなきゃ、ぶん殴る。
そう思って手を伸ばした瞬間、扉の向こうから低く落ち着いた声が届いた。
「……入れ」
まるで最初からわかっていたような、あまりにも自然なタイミング。 それが妙に癇に障る。 ダイゴは無言のまま扉を開けた。
中には、あの男がいた。 いつも通りの姿で、椅子に腰かけ、膝に書物を乗せている。 何一つ変わっていない。だからこそ、不自然だった。
「気づいたのだな」
開口一番、それだけ。 ダイゴの足が一歩だけ止まる。
「……ああ」
聞き返す必要もなかった。わかっていた。 自分の中でもうっすら確信していた。 だけど――声に出すのは、また別だった。
「アンタは、最初から知ってたんだろ。世界は滅びるって」
オーディンは答えなかった。
否定も肯定もせず、ただ静かに目を閉じる。
その動作だけで、十分すぎるほどの答えだった。
ダイゴの中で、怒りが音を立てて湧き上がる。
喉までせり上がった叫びは、もはや制御できなかった。
「ふざけんなよ!!!」
怒鳴り声が、石造りの部屋に反響する。
ただの音なのに、それすらも切り裂くようだった。
「だったらなんで……こんなことさせてんだよ! 意味あんのかよ!?」
言葉が先に走る。感情がそれに追いつけていない。 でも止まらない。
「みんな知ってんのか!? それとも誰かが死のうが関係ねぇってのか!?」
オーディンは動かない。 怒号を受け止めるでもなく、反論するでもなく、ただ静かに沈黙していた。 その無反応が、無性に腹立たしい。
「……なんか言えよ」
怒鳴る声は、次第に低く沈んでいく。まるで空気を 殴っているような感覚に暴れる熱が、どこかで冷めていく音がした。
そのとき、ようやくオーディンが口を開く。
「――我は、全てを知っている。だが、それを語れば全てが終わる」
「終わるって……何がだよ」
「希望だ」
短く返されたその一言が、喉に引っかかる。
「……希望? ふざけんな。そんなもんで誤魔化されるかよ」
「未来を信じられぬ者は、今を戦えぬ」
オーディンはゆっくりと立ち上がった。
手にしていた本を卓の上に置く。その音が妙に静かで、重かった。
「“結末”を知った時、人はもう戦えない。『死んでもいい』と笑う者はいるが――『死ぬと決まってる』と知った瞬間、足がすくむ」
その横顔に、一瞬だけ翳りが射した。 だがすぐに、無表情へと戻る。
「でも……あんたも死ぬってわかってんだよな?」
「もちろんだ」
ダイゴは言葉を失った。
「だから語らぬ。“無知”は幻想だが、世界を支える希望でもある」
淡々と話すオーディンの姿に怒りは冷えきっていた。
焼け跡のように、形だけがそこに残っている。
目の前の男は、ずっと前からこの終わりを知っていた。 それでも誰にも言わず、ただひとりで耐えている。
……ダイゴは、黙った。
だが。
「……全部、自分で抱えて、誰にも言わず、誰も頼らず。それが“最善”だと、本気で思ってるのかよ」
沈黙。
「そうだ」
短すぎて、残酷な答えだった。 それは“答え”というより、“線引き”。
それこそが運命であるかのように。
ダイゴが何かを言いかけた時、オーディンが先に口を開いた。
「お前の言葉は、人としては正しい」
低く、穏やかな声。
「だが――それは感情から出た言葉だ」
ダイゴは息を呑む。
「我は皆を統べる者として、感情を殺し、皆の希望でなくてはならない」
オーディンはそれ以上、何も言わなかった。 視線を逸らし、ダイゴをただ置き去りにする。
その姿は、あまりにも冷たく、強く、正しかった。
――そして、絶望的なまでに孤独だった。
◇◇◇
そして―― そのドアの向こう側。誰にも気づかれることなく、廊下の奥にひとつ、人影があった。
ブリュンヒルデ。 腕を組み、壁にもたれかかりながら、ずっとその場にいた。
姿勢はいつものように軽い。けれど、目の奥には、何かが沈んでいた。
静かに、小さく、吐き捨てる。
「……なーにひとりでカッコつけてんだ、童貞」
声は、誰にも届かない。
くすっと笑いながら、壁に頭を預ける。
それは、誰にも見せない優しさの仕草だった。
やがて、気配を消すようにして、ブリュンヒルデは廊下を離れていった。
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