第17話 甘い香りと揺れる忠義

「分析の結果、戦士の精神安定には、糖分が有効と出たわ」


 厨房の入口で腕を組み、ソフィアが言った。無表情の仮面の奥から放たれるその声は、冷たく正確、余裕を許さないロジックの塊。
 ついでに、その手には分厚い報告書ファイルが一冊。たぶんヴァルハラ中の戦士の血糖値と心拍のグラフが網羅されてる。


「データはここ」


 ドサ、と机に落とされた書類の表紙には、“精神安定およびモチベーション維持に関する調査・第一報告書”。
要は、「スイーツ最強」ってことだ。随分まわりくどい道のりで、真っ直ぐな結論。


「ま。やってみるよ」


 返事はあくまで軽いが、即答するあたり、ダイゴの中ではもう結論が出ていた。
 ラースとヘルギ。

 ああ言う関係には“心を解く甘いもの”が一番だ。


 ◇◇◇


 厨房に、謎の香りが漂っていた。

 甘い。

 それも、戦士の館にはまるで似合わないほどに、甘い。
鍋の中でコトコトと音を立てるうっすら黄色ががったクリーム――そして、最も濃厚に香るのは、木ベラを構えた一人の男だった。


「ダイゴさん、それ、なんですかっ!?」


 声の主はクララ。スカートをたくし上げ、ぱたぱたと小走りで近づいてくる。
大きな目を見開き、鍋を覗き込む。


「エッグタルトの中身だ」

「エッグタルト?」

「卵を使った甘い焼き菓子だな」

「わかんないけど、もう匂いだけで幸せですぅ」


 栗色の髪をふわりと揺らし、くるくるとその場で回る。

 小動物のような庇護欲を刺激する仕草。

 これが彼女の人気の一つなのだろう。


「やります! わたし、それ混ぜるの手伝いたいですっ!」

 相変わらずのキラキラエフェクト。


「おー、じゃあ頼むわ。空気含ませるように、ゆっくり混ぜてな」

「任せてください!」


 ビシリと敬礼。やる気は充分だ。


「おー、なんか美味そうなもん作ってんじゃーん!」


 バタン、と厨房の扉が雑に開いて、ブリュンヒルデ登場。


 黒ギャルの陽キャスマイル全開で、両手に食器の山を抱えている。皿洗い帰りらしい。


「ダイゴ! あたしの分、あるよね? 甘いの、好きだよ! 筋肉にも糖分は大事だよ!」

「おまえはその皿を無事に運ぶことで貢献してくれ」

「やだー! なんであーしだけのけ者!?」

「鎧のまま料理する気かよ。みんなみたいな制服持ってないのか?」

「いやー、あーし厨房担当じゃないし。あえて言うなら『無所属特命係長』ってとこ?」

 つまり暇な雑用係ってことか。

 じゃあ仕方ない。


 やりとりをよそに、壁際ではノラが無言でトレーに焼きあがったタルト生地を並べる。
丁寧すぎる手つきに一切の無駄がなく、タルトの間隔もミリ単位で揃っていた。ほぼ軍事工学。

 

「ノラさん……心の支柱って感じですね」

 ぽつりとクララが言い、それにダイゴが頷く。

「……ああ、言葉がいらない関係って、あるんだよ」

「なに童貞がイケボ出して口説いてんの!?」

 ブリュンヒルデの容赦ないツッコミが炸裂した。

「うるせー! お前には食わせねーぞ!」


 その後ろで、ソフィアが書類を抱えたまま見守っている。


「これだけの人数が動いて、一品。効率最悪ね」


「手の込んだものほど美味しいものよ。それに楽しそうじゃない」


 イングリッドが横から茶々を入れる。
彼女は袖をまくってすらいない。あくまで見守り役らしい。


「戦意の回復率と士気レベルに対して、短期的には効果が――」


「はいはい、頭で食べるんじゃないの、こう言うのは」


 イングリッドが言葉を挟む。ソフィアは一瞬口をつぐんだ。

 メガネの奥の表情はわからないが、その背筋に漂う雰囲気が、わずかに和らいだ気がする。


 そうして出来上がったのは――

 

「……わああ、これがエッグタルト!? 見たことない……おいしそう……!」


 クララが目を輝かせ、焼き色のついた丸い菓子に吸い寄せられるように歩み寄る。
 黄金色の表面に、ところどころ焦げ目のついたふち。つややかな卵のフィリングが、ほんのり温かい。

 

「うわっ、これ……トレーニングのあとに食べたらガチ泣きするやつじゃん!」

 ブリュンヒルデがそう言って、ヒョイっと手を伸ばす。

「あ、バカ!」

 ダイゴがすかさず手を出すも、がぶり、と豪快にひと口。

「……アッ!!アツッ!!アツッ!!」

 口を押さえて暴れ出す。


「いただきますっ!」


 クララは両手を合わせて、きちんと礼をしてから、ふうふうと冷ます。

 ひと口、口に入れて――


「……ん~っ、あったかくて、甘くて、卵がとろっとしてて……ああ、なんて幸せっ……!」


 言葉が歌になりそうな勢いで、頬を押さえて身をよじった。

 ノラは無言のまま。だが、ひと口に運んだあと、目を細めてほんの一度だけ頷いた。
 職人の“合格サイン”に、ダイゴが密かにガッツポーズを決める。

 

 そんな中――

 

「……なんか、甘いもの、久しぶりだわ……」


 ぽつりとイングリッドがこぼすように言った。


 その声に、ダイゴが振り向く。彼女は皿に手を伸ばすこともなく、ただ少しだけ笑っていた。けれどその笑みは、どこか曖昧で、遠くの記憶を見ているようだった。


 静かな厨房がにわかにざわつき始める。

 匂いにつられたヴァルキュリアたち数十名がどっと押し寄せてきた。
制服の袖をまくった者、エプロンを外し忘れたままの者、タルトを奪い合いながら騒ぐ者。

 厨房は一気に混乱の渦に落ちた。


 そんな中、ソフィアもいつの間にか、タルトを確保していた。

 一呼吸。

 ほんのわずかに、肩が力を抜いたように見える。

 

 そして、誰にも声をかけられないまま、その場を離れていく。

 すれ違いざま。タルトを、そっとナプキンで包み、懐に収めたのをダイゴだけが見ていた。

 その仕草は無駄なく、しかしどこか大事そうで。
 彼女の背中には、メガネ越しに見せることのない満足の影が、ほんの一瞬だけ宿っていた――気がした。


 ◇◇◇


 自室のドアが閉まった瞬間、ソフィアは爆発した。
 いや、物理的には爆発していない。ただ、精神的には完全に“忠義ハイ”である。


「よっっっしゃああああぁああッッ!!!!!」


 静かな総括長、何処へ。メガネの奥で目がギラギラしていた。


 ガッツポーズし、肩をぶんぶん振り回してる。


「本日──この私、ついに、ついに、オーディン様に“甘味補給”を献上できるッ!! 感謝! 敬愛! 忠義! すべてを一つにした、この黄金比スイーツタイム!!」


 語彙力も感情もボルテージも限界突破中。
もう何を言ってるのか自分でも分かっていないが、テンションがすべてを塗り潰している。


「紅茶はダージリン!!違うな? 違わないな!? そうだ、合わせるならセカンドフラッシュ!! 濃厚で、ほのかな香ばしさのある余韻!!マリアージュだよ!!これはもうマリアージュ以外のなにものでもないよッ!!」


 もはや“忠義のソムリエ”である。

 ティーポットを抱えて高速でお湯を注ぎながら、片手でティーカップを磨き、足ではマットを直すという完全に危険な三刀流モード。


「温度、湿度、明るさ、気圧!! 完璧に揃っている!! まさに今、この瞬間こそがティータイムの神域ッ!! 我が主よ……あなたは幸運だ……私が淹れる紅茶は、今日、宇宙で一番うまいぞッ!!」


 誰にマウント取ってるんだ。

 そして懐から取り出す、例のタルト。ナプキンに包まれたまま、そっと机に置く。
 そこだけは異様に丁寧だった。


「うふっ……。繊維の折り目も乱れてない。完璧な保管、完璧な抽出、完璧な……ッ!!」


 メガネ越しにうっとりしている。たぶん、今彼女の頭の中にはハープの音が鳴っている。


「甘味……尊い……控えめに言って、世界の祝福……ありがとう……ありがとうオーディン様ッ!!」


 そしてトレイを構えるときには、背筋は軍人のように真っすぐ、目線は聖職者のように神妙だった。


「この紅茶、このタルト、この気持ち──これらすべてをもって、推しの元へ参るッ!!」


 ほとんど“神前式”のノリである。

 トレイを載せて廊下に出ると、物音ひとつ立てぬ静謐な足取り。
 さっきまで床の上で三点倒立しかけていた女が、今や完全なる聖騎士。落差がひどい。


 そして──
 オーディンの部屋の扉の前に立ったその瞬間。

「深呼吸、三回。表情、制御。心拍数、安定。呼吸音、抑制──完璧だ」

 総括長という仮面の下で、ソフィアの口元がほんのりゆるむ。


 言うなれば、“任務達成直前の誇りに満ちた満足顔”である。


 ──が、その瞬間、自分の表情が危ない方向に傾いていることに気づき、グッと顔を引き締めた。


「……違います。これは、感情ではない。気の緩み。誤差。表面ノイズ。不要です。抑圧、圧縮、排除。よし」


 ブツブツ唱えながら、右手をゆっくり持ち上げ、ノックの構えに入る。

 ──その手が扉に届く寸前。


「……“兆し”の進捗は?」


 かすかな声が、扉の向こうから聞こえてきた。

 ソフィアの手がピタリと止まる。カップの中で紅茶が少し揺れた。


 声の主は、オーディン。
重ねて、ムニンの低く抑えた声も続く。


「……はまだ確定していない。だが、時間は……」


 部屋の中で何かが交わされている。
主の声も混じっている……しかし、その口調はいつもより低い。


「まだ、皆には伏せておく……」


 静寂が落ちる。
眼鏡の奥で、ソフィアの瞳がかすかに揺れた。
それは、外から見れば気づかれないほど微細な変化だったかもしれない。けれど彼女にとっては、それが明確な“乱れ”だった。

 何も知らず、何も問われず、ただ仕えること。それが彼女の矜持だった。
けれど今、オーディンの声から滲んだ一言が、思いがけず胸に引っかかった。


 ──“皆には伏せておく”。


 その言葉の奥に何があるのか。理由はあるのだろう。必要な配慮も、判断も。

 ……けれど、それが「自分ではなく、フギンやムニンだけに語られている」という現実だけが、妙に胸を締めつけた。


 そして、急に思ってしまった。
“自分は、本当に信じられているのか”と。


 忠義とは、問うことで成立するものではないと、ソフィアは知っている。

 絶対の信頼を置くこと。そこに疑うという言葉はないと言うことも。

 しかし……。

 ソフィアは、そっと手を下ろした。

 
 ノック寸前だった手は、音もなく戻され、トレイの側面を静かに支え直す。

 足音を立てぬよう、ドアから離れる。
歩幅を乱さず、姿勢を崩さず、それでもほんの少しだけ背筋の力が抜けていた。


 オーディンの部屋の扉は、何事もなかったかのように、沈黙を守っている。

 それが、少しだけ遠く感じられた。


 廊下の角を曲がったところで、ソフィアは立ち止まる。
誰もいないことを確認してから、ゆっくりとトレイを壁際の小さな台に置いた。

 紅茶はまだ温かい。香りも豊かだ。
タルトは崩れていない。完璧な状態だった。……そのはずだった。

 ソフィアは視線をそこに落としながらも、心はまったく別の場所にあった。


 ──“皆には伏せておく”。

「それは、わたくしも含まれているのでしょうか……」


 独り言というには、あまりに自覚的な言葉だった。
誰に聞かせるでもなく、それでも明確に自分へと向けた問い。信頼されていないわけではないと、思っている。


 けれど──ほんのわずかでも「そうかもしれない」と感じた自分がいた。


 そこに、自分自身が驚いていた。


「……いけません。これは疑念ではありません。ただの……動揺。仮の反応。通過するべき感情です」


 冷静な口調で、理屈を積み上げる。


 その積み木は、かすかに震えていた。

 もし、これがほんの数分前だったなら。
自分は迷いなく、この紅茶とケーキを扉の向こうに届けていただろう。
それが、忠義であり、敬愛だったから。

 だが今、自分の手は止まっていた。


「……わたくしは……」


 その続きを口にする前に、ソフィアはそっと背を向けた。
視線を落とし、まるで何もなかったように歩き出す。
そうすることで、何かが元に戻るような気がしたのかもしれない。


“疑ってしまった”というその一点だけが、彼女の中に残っていた。


 ◇◇◇


 角を曲がったところで、ふと甘い香りが鼻をかすめた。
ダイゴは立ち止まる。
廊下の中ほど、壁際の飾り台に銀のトレイがぽつんと置かれていた。
その上には、湯気の立たない紅茶と、エッグタルト。


「……なんで、ここに?」


 つい片眉を上げ、呟いた。
無駄のない整い方。紅茶の注ぎ具合、菓子皿の並び、シルバーの角度まで寸分たがわず。

 そして添えられた《オーディン様、ご苦労様です》というメッセージ。
間違いない。――鉄仮面、ソフィアの仕業だ。


「急にトイレでも行きたくなったのか?」


 と思ったものの、彼女の性格からしてそれはない。

 それに置きっぱなしにするのもありえない。


 ダイゴはしばらく無言で立ち尽くし、「……ったく、しょうがねえな」と苦笑いした。
気まぐれと気配りのあいだ。トレーを手に取る。静かな廊下を進み、やがて館の最奥、オーディンの私室の前にたどり着いた。


 重厚な木製の扉。軽くノックしようとして、ふと手を止める。

 中から声が聞こえた。
低く、静かな響き。聞き慣れた声、オーディンだ。
それと聞いたことのない誰かの声も混じっていた。


「なんだ。来客中かだったのか……」


 そう思い、特に気にせず帰ろうとした。
だが、その瞬間、耳の奥に引っかかる言葉があった。


「……ラグナロクは、必ず訪れます。……逃れることは――」


 がちり、とトレイの上のスプーンが微かに揺れ、音を立てた。
なぜか手がわずかに震えている。
口の中がやたらと乾き、胸の奥に冷たいものが落ちていくような感覚。


「……なんだ、この妙な感じ……」


 自分に向けた問いだが、廊下は静かで、誰の気配も消えていた。
その場に立ち尽くす背筋を、説明できない寒気が這い上がっていく。

 誰も飲まなかった紅茶の香りだけが、まだそこに漂っていた。

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