第21話 クララのおにぎり

 朝だった。
 音も匂いも景色も、一見すると昨日と同じ。
けれど、そこにあったのは「いつも通り」の仮面をかぶった、不安と恐怖だったのかもしれない。

 ホールには、昨夜の宴の痕跡がそのまま残されている。
空のジョッキ、ひっくり返った椅子、片付け忘れた皿――。
どれも誰かが手をつけようとせず、まるで“この場所に触れたくない”とでも言うように放置されていた。


 厨房ではクララが、黙って皿を拭いている。
いつもは賑やかな彼女の口から、今日は一言も出てこない。
それどころか、その目には光がなく、手だけが勝手に動いているようだった。


「……そんなに強く拭いたら、割れるよ」


 ウイスパーボイスが空間に落ちた。


 ノラは相変わらず感情の起伏はないが、それでも不思議と優しさが滲む声。
注意でも文句でもなく、言葉の棘はきれいに削れていた。


「あっ……ごめんなさい」


 クララは振り向かない。
けれど、その背中からは“笑おうとして、笑えなかった”ことが伝わる。


 彼女だけじゃない。
今ここにいる全員が――何をすべきか、何を信じるべきか、分からなくなっていた。


「……」

 ノラは何も言わず、再び丸焼きのハンドルを回した。

 鉄が擦れる音、パチパチと炭が弾ける音。
それだけがこの朝にわずかなリズムをもたらしている。

 しばらくして、ぽつりと誰かが呟いた。


「ねぇ……私たち、どうすればいいのかな?」


 その声に返事はなかった。
でも、全員が同じことを思っていた。


 この先、自分たちは生き残れるのか。
戦場に立たされ、ただ死ぬだけの存在で終わるのか。
“運命”とやらに殺されるだけの歯車で終わるのか。

 ラグナロクは来る――それはもう揺るがない。
だからこそ、なおさら答えが出なかった。


 それでも――
火は焚かれ、鍋は湯気を立て、豚は焼かれている。


 いつもの日常は続いている。続けようとしている。


 いや、何とか“いつも通り”を演じているだけなのかもしれない。でも
それが、今の彼女たちにできる、唯一の抵抗だった。


 クララは手を止めた。
しばらく俯いたまま動かなかったが、やがて皿をそっと重ねると、ゆっくりと立ち上がった。
米びつに手を伸ばし、水桶に米を落とす。
冷たい水が手を打ち、静かに濁っていく。
目を閉じ、ひとつ深呼吸する。


「……せめて、朝ごはんくらいはまともにしなきゃ」


 声は小さかったが、確かな意志が宿っていた。
笑っていない。でも、前を向こうとしている。


 その手が米を研ぎ始める。
どこかぎこちないが、それでも丁寧だった。

 ノラがそれを見ていた。
何も言わないまま、ゆっくりと体の向きを変え、そっと薪を足す。
火が少しだけ勢いを取り戻した。


 誰も何も言わないまま、ほんの少しずつ、台所に音が戻ってくる。


 しゃばしゃばと水が流れ、包丁の音が響き、鉄の鍋が小さく唸った。


 運命は決まっている。
その現実に目を背けることは、もうできなかった。
けれど、誰かが今日のごはんを作っている。
たったそれだけのことで、ほんの少しだけ、世界が持ちこたえている気がした。


 ◇◇◇


 闘技場には、人の動きだけがあった。


 剣と剣がぶつかる音が、乾いた金属音となって宙に弾ける。
だがその響きには、どこか芯がなかった。
熱を帯びるには淡く、決意を宿すには鈍い。


 戦士たちの剣筋は正確だった。
足さばきも、構えも、まるで教科書のように整っている。
けれど、そこには意志はない。
攻めるためでも、守るためでもない。
ただ、昨日と同じように――動いている。

 誰一人、息を荒げることもない。
剣戟は鳴るのに、音のない稽古だった。


 汗ばむ空気に、誰かの喉が鳴る。
その音さえ、場に似つかわしくないほど生々しく思えた。
気づかぬうちに、誰も水を飲んでいない。
そういうことが、少しずつ積み重なっていく。


 
訓練で運命を覆すほどの何かが起きるわけでもない。

 頭では理解している。

 ――それでも、なぜか手を止める者はいなかった。

 

 ◇◇◇


 クララは白いブラウスの袖をまくると、手を水に軽く通す。

 塩をひとつまみ指にとり、炊きたてのごはんをそっと掴んだ。


 少し熱い米のかたまり。

 手のひらで優しく包むように、ぎゅっ、と握る。

 手のひらが押し返されるそのわずかな反発が、生きているものの反応のように思えた。

 ひとつ、またひとつ。
小さなおにぎりが並んでいく。
どれも形はいびつだし、プロのような美しさはない。
でも“心”がこもっていた。


「……一人でやってるの?」


 振り返らなくても、クララにはわかった。
イングリッドの声。


 少しだけ乾いて、いつもより低いトーン。だけど、どこか迷いがにじんでいた。

 クララは手を止めず、もうひとつおにぎりを握ってから、ゆっくり顔を上げる。
 湯気の向こう、厨房の入り口に彼女は立っていた。
艶のあるブロンドの髪は少しだけ乱れていて、いつもより静かに見える。


「……はい」


 短く返しただけだったが、クララの目はまっすぐだった。


 真剣で、静かで、湯気に霞みながらも揺れていない。



「……なんで、そんなことしてるの?」


 イングリッドの口ぶりには、軽い戸惑いが混じっていた。
ただ、純粋に分からなかったのだ。

 この空気の中で。誰もが言葉を失って、動くこともできずにいるこの朝で――


 どうして、日常のような振る舞いができているのか。

 焼き場で豚を回しているノラはともかく、“この子”はいつもは騒がしく、失敗しては笑ってごまかしていた子。
守ってやらなきゃ、そう思っていたはずの子。
そのはずなのに――今、彼女の背中は、大きく見えた。


 クララは、おにぎりをそっと皿に置き、少しだけ目を伏せて言った。

「止まったままだと、本当に終わっちゃいそうで」

 か細い声だった。けれど、その芯は太かった。
 震えていても、目はちゃんと前を見ていた。

「全部終わるって知って……怖くて、どうしようもなくて。でも、何かしないとって思ったんです」


 その言葉は、背伸びでも強がりでもなかった。


 ただ、今のクララ自身だった。

「……あたしには、なんの力もないです。でも、おにぎりなら、握れます」


 イングリッドの目がわずかに揺れた。
誤魔化しの利かないものだった。


「……それで、何か変わるの?」


 かすれた声。
まるで最後の抵抗だった。
希望を捨てきれない自分が、まだここにいると証明するように。

 クララは迷わなかった。


「わかりません。でも、何も変わらないからって、何もしない理由にはしたくないんです」


 イングリッドは息を呑んだ。
“あの”クララが、こんな言葉を言えるようになるなんて――
その事実が、胸を締めつけた。


「……運命だって、変えられるかもしれないって、ダイゴさんも言ってました」


 クララがふっと笑う。
涙が滲んでいたが、誤魔化しではなかった。


「でも、信じるのって難しいですね。頭で分かってても、心は簡単についてきてくれなくて」


 そう言いながら、またひとつ、おにぎりを握る。
湯気の中で、確かに形を持つものを、丁寧に。


「……だから私は、まず自分の手で形にしてみようって思ったんです。見えるものにすれば、信じられるかもしれないから」

「だからおにぎりを?」

「はい」


 涙をこぼしながら、それでも笑っていた。


「今できる、一番まっすぐな形で、誰かを思いたかったんです」


 その一言が、イングリッドの胸の奥深くに届いた。


 思考が止まり、ただ湯気の向こうを見つめる。

 ――この子は、もう自分の知らない場所まで来ていた。

 
 胸の奥からブワッと熱いものがこみ上げてくる。嬉しくて、誇らしくて、ちょっと悔しい変な感情。


 イングリッドがそっと手を伸ばした。
塩をつまみ、ごはんを手に取る。あまりにも自然に。


 ――暖かい。

 その温度をじっくり味わうように白い手で包み込む。
できたおにぎりはクララの同様、不格好で、崩れそうだったけれど――


 
「……でも、これでいいのよね?」


 
 クララはこくんと頷いた。
その頷きには、もう「妹」ではない、何か誇らしさと信頼が混じっていた。


 静かに動き出す二人。

 だが、厨房の他の者たちは、まだ動いてはいなかった。


 それぞれの持ち場に立ちながらも、目の前の作業は形だけのもの。
器を拭く手は途中で止まり、包丁を握る指はかすかに震え、空気は重く、時間だけがゆっくりと過ぎていくように感じられた。


 けれど二人の動きは小さな波紋のように、ゆっくりと、厨房の空気を揺らしていた。

 その揺らぎに気づいた者が、少しずつ足を止める。
声にはならないけれど、目が向く。手が伸びる。
 そして、また一人、また一人と、ゆっくりと台に集まっていった。


 イングリッドは、気づかぬふりでおにぎりを握り続けた。

 まるで、「今はまだ言葉はいらない」とでも言うように。

 そして――誰かが、静かに米をすくうと、また一人、誰かが手を濡らした。


 塩を指先につけて、見よう見まねで握りはじめる。
ぎこちなく、形はいびつだったが、それでも確かに“意志”がこもっていた。


 空気は少しづつ変わり始める。
炊きたての湯気と塩の匂いに、かすかな熱が混じり、重かった空気が少しだけ緩み、動き出す気配が生まれた。


 誰かが、ひとつ結び終えたおにぎりをそっと皿に置く。


 また一人が、失敗してやり直し、少し笑ってみせる。

 言葉にはならない、けれど確かな“やりとり”がそこにあった。


 いつのまにか、十人、二十人と手を動かす者たち。

 そのうち、誰かが器を持って動きはじめた。籠が用意され、布が敷かれ、次々と握られたおにぎりが並べられていく。

 もう、無音ではなかった。
かすかに釜の蓋が揺れる音。手が米を包む音。
誰かが短く鼻をすする音――
そのどれもが、この場所に“人の温度”を取り戻していた。


 クララは、ふと手を止めた。


 目の前には、イングリッドがいた。
さっきよりも、少しだけ穏やかな目をしていた。
その視線の先には、皆がいた。

 クララは目尻をそっとぬぐった。
もう涙は、こぼれていなかった。


「――配りに行きましょう」


 誰かが言った。

 小さな声だった。


 けれど、それだけで充分だった。

 皆が頷き、籠を抱え、自然と動き出す。

 形も不揃いで、不格好なおにぎりたち。一つ一つに込められた手の温度は、変わらない。それは、確かに“日常”を取り戻しはじめているように見えた。


 ◇◇◇


 闘技場の音は消えていた。


 鎧を脱ぎ、剣を置き、動く者は誰もいない。


 その中に、ヴァルキュリアたちが現れた。

 制服のスカートを翻し、背筋は伸びている。


 籠を抱え、一人ずつ、項垂れる戦士におにぎりを差し出す。


 最初は、誰も手を伸ばさなかった。


 無言の時間が、数秒。


 けれど、その沈黙を破ったのは、一人の戦士だった。

 彼は、ゆっくりと手を伸ばし、おにぎりを受け取る。
そして――黙って口に運んだ。

 噛む。


 ごくりと飲み込む。
その肩が、かすかに揺れた。


「……あったけぇな」


 ぽつりと漏れた声が、空気を変えた。


 次の瞬間、別の戦士が手を伸ばす。


 また一人。
また一人。

 やがて、闘技場のあちこちに、白い湯気と咀嚼の音が広がっていく。

 ヴァルキュリアたちは、ただ静かに見守っていた。



 誰かが泣いていた。


 誰かが、空を見上げていた。


 誰かが、握ったおにぎりを胸に抱いていた。


 イングリッドは、そんな光景をただ見つめる。

 その青い瞳の奥に、確かなものが宿っていた。


 ◇◇◇


 ダイゴは、廊下の一角に立ち、彼女たちの姿を目で追っていた。


 おにぎりを配り終えた彼女たち。湯気の余韻と、ほんのり塩の香りがすれ違っていく。

 何かを大げさに言うつもりはなかった。


 でも、心の中は、静かにざわついていた――よくやった。すごいよ、お前ら。

 心からそう思った。


 クララが、ふと足を止めた。
大きな茶色い瞳と目が合う。


 その一瞬で、全部伝わった気がした。


 言葉はなくていい。
互いに、もうわかっていた。

 小さく頷くと、彼女もそれに応えるようにほんのわずか目を細めて、また歩き出す。


 遠ざかる背中を見ながら、ダイゴは息をついた。


 焦りも、不安も、まだある。
でも、それ以上に――胸の奥が熱くなっていた。

 あいつらは、ちゃんと抗おうとしてる。

 なら、俺もやる。黙ってるつもりなんて、最初からない。

 この世界の運命も、物語の結末も――
俺たちで、変えてやる。


 ダイゴは歩き出す。


 向かう先は、厨房だった。

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