密談


 ◇ ◇ ◇


 灯火塔(灯台)の明かりが海を撫でる夜更け、フェリチェは静かに目を開いた。見慣れぬ天井と寝台周りの雰囲気に戸惑った後、微かな人の気配に怯えて顔が蒼白となった。


「――拙宅です、フェリチェ殿」


 そばで見守っていたギュンターは、どっしりした体に不釣り合いなほど柔らかい声を心掛ける。それにすら、フェリチェは束の間、身を強張らせる様子を見せた。


……さん?』


 ようやく息を落ち着けて、それだけ呟いたが、まだ混乱が深いのだろう。故郷の言葉が口をついて出ていることにも、気付いていない。ギュンターは椅子に腰掛けたままで、ゆったりと語りかけた。


「はい。ギュンターですよ、フェリチェ殿。今晩は自警団で御身を預かっては――という話になりましてな。しかし、宿泊所で馴染みのない者に囲まれては、フェリチェ殿も気が休まらぬでしょう。それで不肖ながら、このギュンターめが名乗りをあげました。落ち着かぬやもしれませんが、今晩は拙宅にてゆっくりお休みくだされ」

『申し訳ありません。たくさん……ご迷惑をおかけしていますわね。イードさんはどちらに? ご無事ですの?』

「ええ、心配無用です。今は――着替えなどを取りに出ておられますが、じきに戻って参りますよ」


 ほっと胸を撫で下ろしたフェリチェは、なめらかな手触りに違和感を覚えて上掛けをめくった。着慣れた貫頭衣の寝巻きではなく、見覚えのない前開きの絹の寝巻きを着せられている。

 あちこちにできていた擦り傷は手当てされ、汚れた体が清潔に保たれていることに、フェリチェは少なからず動揺した。


「これ……もしやグンタが……? それともイードか?」

「やっ……! 傷の手当ては女性団員が――! 清拭と身繕いは、ご友人のローザ殿が手を貸してくださいました。フェリチェ殿がただいま身につけているのも、ローザ殿のものです。坊ちゃんは一指たりとも触れておりませんので、ご心配なさいますな!」


 窓辺では、白と桃の優しい色合いの花が、ほのかな香りを零している。心を落ち着けて寝巻きの袖に鼻を寄せてみれば、同じ香りがした。

 ほっとするとともに、忸怩たる悔恨に苛まれてフェリチェは歯を食いしばった。


「……みんなに心配をかけたな。フェリチェが、迂闊だったばっかりに……」

「フェリチェ殿。理不尽に巻き込まれた者はしばしば、そう言って己を責めます。ですが、違いますぞ。罪を犯すか、己を律するか……決めるのは自身の問題なのです。そうして誤ったほうに天秤を傾け、我欲に走ったものが加害者となるのです」


 ギュンターは初めて腰を上げると、フェリチェの上掛けを掛け直して眠るよう促した。


「弱きものに手を差し伸べられるフェリチェ殿の心根は、素晴らしいものですからな。大切にしてくだされ」

「……うむ、かたじけない。こんな格好ですまないが、後できちんと礼をさせてくれ。グンタになら、フェリチェの毛を分けてもいい」

「お気持ちだけ頂戴いたします。さあ、目を閉じて――」

「イードは……毛より、フェリチェのカラダを貸してやったほうが喜ぶだろうな」

「な……っ」


 耳を疑って素っ頓狂な声をあげそうになったギュンターだが、フェリチェの目蓋が微睡みにとろんと沈み始めたので、どうにかこうにか叫びを嚥下した。


「帰ってきたら伝えてくれ。フェリチェが寝ている

間なら……研究は見逃してやってもいい、と……」


 静かな寝息が部屋に満ちて、ギュンターのひっくり返った鼓動もようやく静かになった。


 ※ ※ ※


 灯りを絞って、部屋を出る。居間のテーブルにはランプが焚かれ、そのそばには背筋を伸ばして書き物に勤しむイードの姿があった。


「落ち着かれた様子で、いま一度眠られました」

「そう、ありがとう。お茶淹れようか」

「ああ、それがしが。坊ちゃんはどうぞそのままで」


 炒った豆を煮出して作るギュンターの茶は、独特の香ばしい風味がある。豆は数日分をまとめて炒って保存してあるので、ポットに豆と熱い湯を入れ、数分蒸らせば完成だ。待っている間にも、ふわりと香ばしい香りが部屋に漂い始める。

 その柔らかな香りに一息ついて、イードはペンを置いた。


「チェリは、アンシアに帰りたくなったかな」

「どうでしょうな……今しがた話した様子では、そのようには感じませんでしたが」


 そう言ってギュンターは、フェリチェの言葉をそのまま伝えた。イードは苦笑して、フェリチェの寝ている部屋を振り返る。


「そう、それじゃあフェネットの脚……肉球でも調べさせてもらおうかな」

「それは紳士ではございませんぞ」

「冗談だよ、そんなことはしない」


 茶器を手に、ギュンターは斜向かいの椅子に腰を下ろした。持ち手のない小ぶりな器に、透き通った褐色の茶が注がれる。湯気とともに、いっそう深い香りが立ちのぼった。

 イードは器の縁に唇を寄せ、ふうふうと熱を飛ばしてから一口すすった。

 自宅とは違う茶器の口触りに、非日常を感じずにはいられない。ギュンターと知り合って日の浅いフェリチェにしたら尚のことだろうと、イードは小さく息を吐く。

 本当は、心から安心できる場所に寝かせてやりたかったが、私怨の痕が生々しく残る床板を直さぬことには、フェリチェを連れては帰れない。そう考えて今晩はギュンターの家に泊めてもらったが、すべてが裏目に出てしまうように思えた。


「何がチェリのためになるか、考えていたんだ」


 イードは書き付けの中から、昼間眺めていた地図を引っ張り出して、ギュンターに示した。


「街の中でも、より安全な場所にある借家を探してた」

「引っ越されるので?」


 イードは首を横に振り、器を卓に置く。そっと置いたつもりが思ったよりも大きな音が立ってしまい、それを補うような静寂が束の間、二人の間に転がった。


 しばしの沈黙の後、イードは椅子にもたれ、肩の力を抜くようにして口を開いた。


「ギュンター。俺は、フェリチェを興味深い研究対象の一人だと思っていたんだ。だから一緒にいても、間違いは起きない自信があった。でも、チェリは俺の想定より何倍も温かかったんだ」


 一度は置いた器に手を伸ばし、包みこむようにしてイードは続ける。


「他人のために涙を流せる彼女の温かさに触れて、どうしようもなく惹かれた。生憎、フェネットの特殊な体質と重なって、うやむやになっちゃったけどさ。

チェリを観察していると楽しい。表情がころころ変わって、次はどんな反応を見せてくれるか楽しみなんだ。それは以前から変わらないはずなのにさ、今の俺はチェリに笑ってほしい、喜ばせたいと思ってる。それは主観でしかないだろう? 俺はもう、観察者ではいられなくなったんだ」

「坊ちゃん」

「チェリは、気付かないだろうね。もちろん、それでいいんだ。でもその純粋さに甘えて、俺はいつまで保護者の顔をしていられるだろう」

「それで、フェリチェ殿のための住まいを探していらっしゃったのですか」


 苦笑まじりに頷いて、イードは地図を畳んだ。


「でもやめた。今回のことでわかったよ。俺は案外、欲が深い。チェリを誰かに委ねて、安心していられるほど器用じゃないみたいだ。今更目を離すのも、やっぱり不安だしね」

「正直にお伝えなされ。フェリチェ殿はきっとお喜びになります」

「どうかな。全く脈がないとも思わないけど、機を誤ったら、この関係が破綻するのは目に見えてる。

……それなら、チェリが自分からここを出て行きたいと言うまで、俺は俺なりに彼女を守りながら、この想いを楽しむことにするよ。――と、いうようなことを書き連ねてた」


 茶を飲み干したイードは、手元に広げていた何枚もの紙の中から、書き上がったものを集めた。もう一度読み返して丁寧に角を揃えたのは、彼の髪と同じ深い黒の紙束だ。それを小さく筒状に丸めて席を立つと、窓辺に身を寄せた。

 窓の外には宵の空が広がる。休まぬ港には煌々と灯りが焚かれ、海面から立ち昇った光が夜空をぼんやりと紫紺色に染め上げた。

 夜の帷を切り裂いて、一羽の隼がユーバインの上空を滑る。イードはその鳥に手を振りながら、空の向こうにアンシアの地を臨んだ。



 ※ ※ ※



 翌朝、フェリチェは申し訳なさそうに、身を縮こまらせて起き出してきた。二、三、言葉を交わしてもまだ、勝手の違うギュンターの住まいに戸惑い、借りてきた猫のようだった。

 しかし、食卓に並んだ温かな朝食と見慣れたイードの穏やかな微笑みを見るや、堪えていたものが吹き出すように大きな声をあげて泣き出した。それは、深い安心感から来たものである。


 温かく、清らかなその涙をすぐ隣で拭ってやれることに、イードもまた安堵するのだった。






〈次回は……♡♡〉

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