第七章 ブラックリストのオス/記憶の研究
忘れたいこと
──……ドゴッッ!
──……ガスッ……ゴンッ……!
表から聞こえる奇怪な音と、やけに振動する家屋を不審に感じたイードは、甘薯の裏漉しを放り出して玄関に向かった。
細く戸を開けて表を確かめると、白い影が悄然と立ち尽くしていた。
時折り、壁に頭を打ちつけているのは、どういうわけだろうか。剥き卵のような額が、痛々しく赤くなっている。
「おかえり。何してるの?」
「……記憶を頭から落っことそうとしている」
また面白いことを言い出したなと、イードは膨れ上がる好奇心を潜ませて、フェリチェを中へと引っ張った。
「座って。とりあえず額を冷やそう」
フェリチェは頷いて、ソファへ向かう。
今日のために新調した、お呼ばれ用のワンピースの裾をそっと押さえて腰を下ろす。むっすりしていても、姫の気品は失われていなかった。
その様子を、イードは静かに観察する。
髪切り屋のカミュに結い上げてもらった洒落た髪。化粧もしてもらったのだろう、普段より大人びた目許に仕上がっている。昨夜、念入りに整えた爪は、爪紅で飴のように輝いて……どこからどう見ても、洗練された美しい娘だ。
これを放っておく男はいないだろうと、ただそこにある事実のみをイードは受け入れる。その他の主観的感想や感情は排除した。
「楽しみにしていたのに、何かあった? ロロさんたちの結婚式」
「いいや。楽しかったぞ! 二人とも麗しくて、晴れやかで……憧れの夫婦だ」
ユーバインに来て初めて意識し、手の届かなかった男性ではあったが、今はその恋人……いや妻とも懇意な仲だ。
披露宴の様子をうっとりと語っていたフェリチェだったが、その後の
消沈と憤怒を身のうちに同居させた顔で、フェリチェは語る。
「ロロの友達の妹の恋人の従兄弟という奴が、フェリチェの元婚約者レナードと同じ匂いがして……」
「情報が多いな」
急いで書きつけるイードに構わず、フェリチェは続けた。
「何となくチャラチャラ浮ついたオスだったし、警戒はしていたんだ。なのに、あのうつけ者! ほんのわずかな隙をついて……フェリチェにキスしたんだ!」
「……ふむ」
「カミュにだって、されたことないんだぞ! ……ぐおおお、また思い出してしまった!」
フェリチェは怒号の勢いに任せて、テーブルに額を打ち付けた。
薄荷の精油を垂らした水で絞った手拭いを、イードはフェリチェの額に押し付けた。
「こんなに赤くしちゃって。後で酷くなるよ」
「どうにかして忘れたいんだ! だが、そうだ。その前に危険人物として図鑑に載せておかねば……!」
そう言って筆を取ったフェリチェだったが、一文字とて書き出せないまま、紙にはミミズがのたうち回る。
低く唸るように悶えて、またも額を打ちつけようとするので、イードはテーブルを遠ざけた。
「くっ……あのオスめ、よくも……ああ腹が立つ!」
ペンを放って、整った髪を掻きむしる。顔もよく思い出せないし、名前だって知らないのに、唇の感触だけまざまざと蘇ってくる──と、フェリチェは肌を粟立たせた。
「ええと、どうしてそんな状況に?」
「わからん! ほんの一瞬だった!」
不実な男レナードと同じコロンの香りを振り撒いて、軟派な調子で近付いてきたという。
まるで隣り合った親友同士、肩でも組むかのような気軽さで、男はフェリチェの肩を抱いて引き寄せると、ちょっと話してチュッと触れていったらしい。
先日大きな事件に巻き込まれたばかりだ。フェリチェに警戒が足りなかったとは言えない。よほどの早技だったようだ。
「あろうことか、他のメス友達にもやっていたんだ! あれはなんだ、色魔か? はっ……グンタを呼んで、しょっぴいてもらうべきだったな!」
「まあまあ、落ち着きなよ」
「落ち着けるか! ほんの一瞬でも、フェリチェにとっては一生ものだぞ!」
永遠の愛を誓い手を取り合って、花々の香りとアンシアの風に抱かれながら交わされるのが、フェリチェの理想の口づけだ。
「降り注ぐ陽光のごとく、優しくそっと触れて……それから二人、見つめ合ってはにかむんだ。あんな……なんの風情もない、うぇーいなんて変な掛け声のキス……フェリチェは好きじゃない」
「なるほどね。状況と、チェリが思った以上に純情ってことはわかった」
さて、記憶を消すには……とイードは自身の頭に作り上げた本棚から、手がかりを引っ張り出す。
「そもそも嫌な体験というのは、忘れようとするからこそ記憶に残りやすいんだ。チェリがいま忘れよう、忘れようとするほどに、記憶に焼き付けてしまっているんだよ」
「なんだとっ? では、どうしたらいいんだ?」
「悪い記憶を思い出しそうになったら、良い記憶を呼び起こせるように訓練するとか……どうだろう。まず、一つ一つ整理していこうか」
そうしてイードは、フェリチェの記憶の数々を聴取して、紙に書き出していく。そうすることで、一見関係のないように見える事柄も、意外なところで繋がって、一つの記憶を作り上げていることが視覚的に捉えられるようになった。
フェリチェが今すぐ忘れてしまいたいと思うのも、単に色魔によるキスの記憶だけではなく、レナードとの思い出も密接に絡んでいるようだった。そこに共通するのは、爽やかに漂うコロンの香りだ。
「香りは記憶に留まりやすいからなあ。この二つは、頭の同じ場所で処理されているんじゃないかと思えるくらいには、密接な関係だ」
「どうしたらいい……。これまでは、あの匂いを嗅ぐ度にレナードを思い出して、尻尾がしゅんとしたりしたものだが。これからはそこに、悔しいキスまで加わるのか……フェリチェは立ち直れそうにないぞ」
絶望に打ちひしがれるフェリチェを安心させるように、イードは別の問いかけをした。
「その香りがした時に、なにか楽しいことはなかった?」
フェリチェは、すっかり苦手になってしまったコロンの香りを思い起こしながら、記憶を呼び覚ましていく。
レナードを想っていた時には楽しかったはずの思い出も、今ではすっかり黒く塗りつぶされているので、なかなかの苦行だ。
だがふと、匂いの中にアンシアの風を感じて、フェリチェは、ふふふと小さく笑みを零した。
「思えば……、いつもルタがそばにいてくれた」
萎れた尻尾が顔を上げると、夕焼け色のリボンが上機嫌で翻る。
「ルタはきっとあの時も、困った姫だと思いながら見ていたんだろうな」
フェリチェは、はにかんだ。自嘲しているようでも、その顔に悲嘆に暮れる色はない。
それで蓋が開いたか、幸福感が堰を切ったように溢れ出した。アンシアでの思い出から、今日の披露宴で食べたロロ特製ウェディングケーキ、花嫁お手製ブーケの色、香り――。それらが、しょっぱい記憶をフェリチェの頭から締め出していく。
「よし、いいね。いまチェリを笑顔にしている光景を、香りと想起できるように練習するんだよ」
「わかった。やってみる」
肩に残った微かな香りに神経を研ぎ澄ませ、フェリチェは目を閉じた。
どうしたって最初に思い出されるのはレナードだ。それから……おぞましい感触が蘇って、肌がざわつき背筋が震える。
そこでフェリチェは尻尾を握った。手の中にリボンの感触を確かめ、ルタを思い出す。すると少しずつ、鳥肌がおさまって気持ちが穏やかになってきた。
これなら案外すぐに忘れられるかもしれない、と得意になっていると、傍らで何やらごそごそやっていたイードが
柔らかで清潔感のある石鹸の香りが、フェリチェの鼻先に漂う。途端に、フェリチェは早朝の陽射しを浴びたような爽快感を覚えた。
洗い立ての洗濯物を干した時の、すっきりとした気分を思い出して、表情も晴れやかだ。
「いい調子だね」
イードが無作為に選んで煽る香りと、肩の残り香を交互に嗅いで、フェリチェの訓練は順調に進んだ。
ところが、何番目かにイードが差し出した
「無理だ……。想像や残り香ではなんとか誤魔化せても、そんなに直接的に嗅いだら、冷静でいられない……」
「ああ、これが
イードは試香紙に含ませるのに手にした、小ぶりな香水瓶を見やる。
若い男性の間で流行っているということで、イードも試しに買ってはみたものの、常用することはなく棚に眠らせていたものだ。
滞留する香りから逃げるように、フェリチェの頭突きは止まらない。
このままだと、フェリチェがコブダイになってしまいそうだと危ぶんだイードは、窓から身を乗り出すと、表の不用品入れに香水瓶を放った。
そのまま窓も開け放して、空気を入れ換える。試香紙は厚紙で厳重に包んで、屑入れの奥底に押し込んだ。匂いが移っていそうな手も、念入りに洗った。
そこまでしてようやく、イードはフェリチェを助け起こしに向かえた。
真っ赤な額をさすりながら、フェリチェは半べそだ。
「もう嫌だ、練習すら苦痛だ……。どうしたらいい」
「あとは……、そうだなあ。同じ体験を改めてしてみるとか」
「どういうことだ?」
「起きたことは、どうしようもないからさ。失敗してしまったチェリの理想の口づけ? ……っていうのを、次こそは実現させて、成功体験で記憶を書き換えるんだ」
「……おい、馬鹿を言うな。誰としろと?」
このところは花婿候補の男について、フェリチェは図鑑に記すのみで、特定の誰かに熱を上げている様子はない。
イードは当然それを承知で提案している。
「カミュさんに頼んだらいいじゃない」
「愚か者っ。カミュとは、男女の垣根を超えた友だぞ。そんなことできるか。あっ、このぉ……いま笑っただろう! からかったな!」
はてと首を傾げて手拭いをもう一度交換すると、イードはキッチンに戻った。
「まあ要は、早くお婿さんを見つけることだね。そうしたら、つまらない男のことなんて忘れられるからさ」
中途半端にしていた甘藷の裏漉しを再開しながら、むくれたフェリチェにありがたい助言をくれてやる。
「……他人事だと思って、簡単に言いおって。まったく、憎たらしい奴め!」
腹が立ったフェリチェは、もやもやした感情をどこかにぶつけないとやっていられなかった。しかし、さすがにもう額は耐久力の限界だ。
そこでイードからふかした芋を奪うと、力任せに……そして大量に、裏漉しを作った。
イードの想定した倍の裏漉しが出来上がる頃、フェリチェの赤く腫れた額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「気は済んだ?」
「……うむ、そこそこだ」
そんな気のない返事をしてはいるが、それなりに気は紛れた。
そのうえ、夕食後にはスイートポテトとほくほくした変わり種のプリンが出てきたので、フェリチェは目に見えて上機嫌になった。
その晩、とても素直なフェリチェは、嫌なことなんてけろっと忘れて、にこにこ顔で布団に入った。
「ふう、今夜はいい夢が見られそうだ!」
フェリチェはそっと目を閉じる。
一日の終わり……眠りにつくための、まじない的な習慣として、その日の出来事を振り返る者は一定数存在する――とイードの研究でも明らかになっているのだが。フェリチェもそのうちの一人であった。
つまり、フェリチェの目蓋の裏にはいま、今日の出来事が鮮明に思い起こされている……ということだ。
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