王子様
「――それくらいで、終わりにしようか」
密やかだが体の芯に響いて、沈み込むような深みのある声に男がびくりと震えるのが、のしかかられたフェリチェにも伝わった。あろうはずのない声に、フェリチェの瞳からは堰を切った涙が溢れ出す。
「今、あなたの背中に触れているのは、ある店から盗まれた肉切り包丁だ。心当たり、あるだろう?」
「知らねぇな。俺は隣町のもんだ、ユーバインには行ってねぇ」
「……ユーバインの店だなんて、俺は一言も言ってないよ」
硬いものを押し付けられた男は背筋を強張らせ、汚い口を閉ざした。
憐れむような穏やかな声は、闇の中から告げる。
「これを持っていた人間は、すでに捕らえられている。その意味がわかったら……もう終わりにしよう」
程なく重い靴音が洞内に響き渡った。一つや二つではない。カンテラの灯火とともに、武装したユーバイン自警団が現れる。彼らは統制の取れた動きで男を取り囲んだ。
男は喉の奥から絞り出すような長い息を吐くと、悔し紛れにフェリチェの襟首を掴んで放り出した。
男の下劣な振る舞いに、誰が落としたか――小さな舌打ちが響く。それを合図に団員らが掴みかかり、男はとうとうお縄についた。
◇ ◇ ◇
目撃情報からフェリチェが街を出たらしいことを知ったイードは、人目に付かずに悪事を働けそうな場所をいくつか捜索対象に挙げた。そのうちの一ヶ所が、この岩窟だった。少し離れた海岸から、ユーバインの街外れにまで繋がる迷路のような作りで、子供や若者のちょっとした遊び場になっている。
潮で満ちた海岸側に赤いマントやカツラが浮いているとの報告を受けた自警団は、街側から洞内に踏み込んだ。イードも彼らに随行していったが、逸る気持ちがいつの間にか彼を団員より先行させた。
イードがそこに辿り着いた時、螢火に浮かぶ真っ白な髪が初めに目に飛び込んできた。次いで、男に暴行を受けながら必死に叫ぶ声を聞いた瞬間、イードは全身の血の気が引くと同時に、烈しい憤りが駆け抜けるのを感じた。それでいて感情は妙に均されていく。
『助けて、ルタ!』
アンシア語で呼ぶのは、ここにいるはずもない者の名前――叫んだとて、その声が届くはずもないことは知っているだろうに、そうする他に彼女の心を守る術はなかったのだろう。
どれほどの恐怖と絶望を感じているのか、イードには想像することしかできない。成り代わってやりたくても、できないのだ。ならばせめて一秒でも早く恐怖から解放してやりたいと思った。
自警団の者たちほど恵まれた体格も、鍛えた運動能力もないのに先行して飛び出した時、ギュンターが身動ぐ気配がした。自分でも、らしくないことをしているとわかっていたが、体が勝手に動くとはこういうことなのだとイードは冷静に自己分析した。
男が引っ立てられていき、女性隊員に抱え起こされてもフェリチェは呆然として、まるで魂が抜けてしまったようだった。無数のカンテラが煌々と照らす中、雪のように輝く髪すらいつもよりくすんで見え、痛ましい。
「チェリ。フェリチェ。遅くなってごめん。もう怖くないよ」
イードが声をかけると、声を震わせながらようやく顔を上げた。
「包丁……持ってたのか? あの、もう一人……。イード、おまえ……怪我、ないか? 無事で、よかった……」
そういう娘だとはわかっていた。自分の心配より他人の心配が先なのだ。わかってはいたが、胸が詰まった。
イードはこれ以上恐怖を与えないよう、凶器に見立てて男に突きつけていた鉄ベラをしまうと、代わりに懐から丸薬のようなものを一粒取り出し、フェリチェの口に含ませた。
「よく、頑張ったね。お腹も空いただろう? 帰ってご飯にしよう、それまではこれで我慢して」
「フェリチェは……大丈夫だ……大丈夫っ……」
気丈に涙を拭って、じっとこらえている様子のフェリチェだったが、小さな菓子を含んでいる間に眠るように意識を手放した。
手当てに当たっていた女性隊員がイードを訝しむが、懐から出てきたのは本当にただの菓子だった。
菓子の甘さに安堵して気を失うほど、恐慌状態に陥っていたフェリチェに、居合わせた者はみな同情を否めなかった。
この場でできる手当てを済ませ、街へ引き揚げることになった。フェリチェはまだ目を覚さない。担架の用意はなかったので、誰が運ぶかという話になった。自然とイードが手を挙げるものと、誰もが思っていたのだが。
「ギュンター。チェリを運んでもらえるかな」
「はっ、わたしは構いませんが……こういった時は、坊ちゃんの役目かと」
「俺はダメだよ。この前の件で、チェリに触るなって言われたばかりだからね」
おどけた調子で言いながらも、イードは穏やかな眼差しに影を深めた。
「それに……今更、王子様ってガラでもないだろう?」
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