『ふたりぶんの春』第二幕:土の中の記憶
アナの身体は、南側の森の入り口に埋まっている。立派な墓があるわけではない。白樺の根の下に、丁寧に穴を掘って、毛布に包んで、寝かせただけだった。いくつか石を積み、小さな木の札に、アナとだけ刻んで、そこに挿してある。風が強い日には倒れてしまうような、それだけのもの。
けれどミロシュには、それで十分だった。
掘ったのは、ちょうど3月に入った頃だった。まだ雪が残っていた。土は重たく、凍っていた。スコップが跳ね返されたときの音を、今でも覚えている。何もかもが間違っている気がしていた。掘るべきじゃない気がしていたし、でも掘らずに置くには、季節が変わりすぎていた。
〝土に返すなら、春にして〟
それは、アナがかつて言っていたことだ。まだ、彼女が元気だったころ。
「ミロシュ、私、死ぬときは春がいいわ」
「冬は長すぎるもの。寂しくなるでしょ」
「春なら……少しだけ、やさしいかもしれない」
そのときは笑っていた。バカなことを言うな、と言いながら、彼は少し泣きそうになっていた。その言葉が、現実になるなんて思わなかった。
──だから春を待った。
冷蔵庫も電気も使えなかったけど、冬の森はよく凍る。アナの身体は、静かに冷たさに包まれていった。不思議なほど、腐敗の匂いはなかった。
〝彼女は春を待っている〟
そう思えば、冬を越えることにも、意味があった。
埋め終えたあと、彼は庭にハーブを撒いた。アナの好きだったチャイブ。それからミント、タイム。芽が出るかは分からなかったけれど、春になれば、風が運んでくれる気がした。
数日は、何も考えられなかった。
だがある朝、庭庭の隅にほんのりと緑が覗いた。どの種か分からない。けれど、それがなんだか嬉しかった。
ベランダに戻り、アナのカップにお茶を注いだ。温かいカップの横に、自分の分も置く。カップの底には、金色の光が溜まっていた。
「今日はね……少しだけ、土の匂いが春っぽかったよ」
彼は話す。
風は、何も返さない。
それでも、話す。
話したくなる。
この世界にはもう誰もいない。みんな選んで、去っていった。構造になって、どこかへと昇っていった。アナも、その一人だったのかもしれない。でもミロシュには、分からなかった。
なぜ彼女が行ったのか。
なぜ自分が残ったのか。
なぜこうして、ふたりぶんの湯を沸かしてしまうのか。
でも、たぶんそれでいいのだろう。
世界がこんなにも静かで、こんなにも美しいのだから。
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