『ふたりぶんの春』 第一幕:ふたりの手があった場所


 朝の音が、まだ世界に馴染みきらないまま、風だけが先に通り抜けていった。土の匂いがする。雪はとっくに解けて、地面の底から、冷たく湿った香りが立ち上がっていた。


 ミロシュは、椅子を軋ませながらベランダの端に腰を下ろした。指先にはまだ、冬の名残が残っていた。痺れたような鈍い感覚。けれど、痛みではない。

「……また、春が来たな」

 声は小さく、それでいてどこか、誰かに聞かせるような響きだった。返事は、もちろんない。

 ベランダの奥、干し網の隅にかけられた白いエプロンが、風に揺れていた。細い紐が結ばれていないまま、くるくると踊っていた。


 家は森のなかにあった。舗装されていない山道に入り、さらに二つの丘を越えた先。文明の音から遠く離れたその場所に、ミロシュとアナは暮らしていた。街では〝世界の終わり〟が話題になっていた頃だ。進化だとか、選択だとか、情報の存在とか、そんな難しい言葉が人々の口から漏れるようになったあたりから、ふたりはほとんど人と話すのをやめた。テレビはつけなくなり、スマホもほとんど見なかった。パンを焼き、シチューを温め、草を摘み、音楽を聴く。それだけでよかった。


 けれどある日、アナは言った。

「ミロシュ、私……行くわ」

 その言葉がどういう意味だったのか、彼はいまでもはっきりとは分からない。ただ、あのときの彼女の目はまっすぐだった。泣きもせず、笑いもせず。決して冷たくはなく。ただ、ひとつの朝のようだった。

 静かで、避けられなくて、どこかやさしかった。


 ──その翌日、アナはいなくなった。

 椅子に座っていた。手は膝の上に置かれたまま、口元には微かな笑みが残っていた。まるで、ほんの少し前まで何かを歌っていたかのように。テーブルには半分ほど飲んだハーブティーがまだ湯気を立てていた。


 彼女の身体はすぐに冷たくなったが、すぐには土に返さなかった。ミロシュはそれを、ひと冬分、ずっと見つめていた。焚き火の明かり、カーテンの揺れ、室内に射す月の光、すべてが彼女を包んでいた。


「……わからなかったよ、アナ」

 進化した者たちは、もう誰も戻ってこなかった。誰も〝残らなかった〟のではない。ただ〝去ることを選べた〟のだ。アナもきっと、そうだった。何かを知っていたのかもしれない。何かを感じていたのかもしれない。でもそれは、ミロシュには届かなかった。届かないままでよかったのかもしれない。でも時々、指先だけが覚えていた。

 彼女が最後に差し出した手の温度。もう言葉では思い出せない何か。


 ──それでも春は来た。


 今日の朝の光は、あの冬の朝とはまるで違っていた。風はどこか柔らかく、葉がまだ開かぬ枝先に光がゆっくりと差していた。

 ベランダの床板が乾いている。

 ミロシュはそっと、隣の椅子に目をやった。

 誰も座っていない。

 でも、そこにはまだ、ふたりぶんの陽だまりが残っていた。

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