『ふたりぶんの春』第三幕:ふたりぶんの春

 朝の陽は、ゆっくりと屋根の端を越え、ベランダの床板を照らしていく。冬のあいだ陽が届かなかった場所が、少しずつ暖まっていくのがわかる。木のささくれがやわらかくなり、埃のように光が舞っていた。

 ミロシュはいつもの椅子に座り、となりの椅子に手を置いた。そこには誰もいない。けれど、春の光だけは、ふたりぶん降り注いでいた。


「なあ、アナ」

 彼はつぶやいた。その声はとても小さく、けれど確かだった。

「今日の光、ちょっと違うな。ほら、去年の春より……なんというか、少し澄んでる」

「……そうだよな。お前がいなくなったから、そう感じるのかもしれないけどさ」

 彼はふっと笑う。

「それでも、こうしてまた朝が来るのは、いいものだよな」


 木々の先に、小鳥の影が見えた。種類は分からない。けれど、羽ばたきの音だけが確かに届いた。この静かな世界に、まだ音があることが、嬉しかった。誰もいないこの地球で、鳥はまだ鳴き、風はまだ吹き、木々は、彼女の名前を知らないまま芽をつける。


 人類が残した科学のすべてが、この森の一滴の朝露ほどにもならなかったことを、ミロシュはようやく、実感していた。


「アナ、お前は進んだんだよな」

「進化とか、構造とか……難しいことは分からないけど。でもきっと、そういう道だったんだよな」

「それでも、俺はここに残って……こうして、お前の抜け殻の隣で春を迎えている」

「……変だな」


 彼は静かにそう言って、目を閉じた。椅子の下で、足元の草がふわりと揺れた。それは、救いというにはささやかすぎて、赦しというには答えがなさすぎた。でも、希望というには、なにかがじんわりと、温かすぎた。


 アナがいない春は、悲しかった。けれど、その春を見ている自分がここにいることも、なんだか、とても美しいような気がした。


 カップの中のハーブティーが、湯気を立てている。

 ひとつはアナのぶん、ひとつは自分のぶん。

 どちらも、もう冷めはじめていた。

 けれどその湯気は、たしかに空へと昇っていた。

 それだけで、今日はいい日だった。


 ふたりでいた春を、ひとりで迎える春を、それでもまだ〝ふたりぶん〟と呼んでいいと思えた朝だった。

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