第19話:ノイズの真実と電子の足枷
「現在位置を特定…できません」
航海士の声が、未知の星空に静まり返るブリッジに、絶望的な事実として響き渡った。
星図データベースのどこを検索しても、目の前に広がる光景と一致するデータは存在しない。
アルゴー号は、文字通り、地図のない海に迷い込んだ孤舟だった。
「通信状況は?」大輔が、冷静に問いかける。
「…絶望的です。
地球との距離が離れすぎて、量子もつれ通信のペアが完全にデコヒーレンスを起こしています。我々は…完全に孤立しました」
通信士の顔が、蒼白になる。
故郷から断絶された、という厳然たる事実が、クルーたちの心に重くのしかかる。
希望に満ちていた船出から、わずか数時間。彼らは、宇宙の迷子となったのだ。
その、重苦しい沈黙を破ったのは、レイナだった。
「いいえ、孤立してはいないわ」
彼女は、メインスクリーンに、一つの奇妙な波形を表示させた。
それは、あらゆる周波数帯で観測される、微弱で、しかし絶え間なく続く、ノイズの波だった。
「これは、船のセンサーが拾っている、この宙域の背景放射よ。
一見、意味のないノイズに見える。
でも、もし…もし、これが『ノイズ』ではないとしたら?」
彼女の瞳が、再び探求者の輝きを取り戻す。
「大輔君、あなたの理論を思い出して。
ニュートリノの海…宇宙に満ちるエーテル…。
もし、このノイズが、この宙域の『エーテル』の振動パターンだとしたら?
我々が持ち込んだ、地球由来の電子回路が生み出す電磁波が、この未知の宇宙の『水』と干渉して、このノイズを生み出しているとしたら?」
それは、逆転の発想だった。
厄介なノイズとして処理されるはずだった現象に、意味を見出す。
「そうだ…」大輔の脳裏で、忘れかけていた一つの疑問が蘇った。
「電子回路で、なぜ、今まで重力効果が発見されてこなかったのか?
僕たちの理論が正しければ、電流の変化は、空間に歪みを生じさせるはずだ。
たとえ微弱でも、何らかの兆候はあったはずだ」
彼は、ブリッジの壁に埋め込まれた、剥き出しの回路基板を指差した。
「答えは、これだ。
僕たちのエレクトロニクス技術の、進化の歴史そのものが、答えなんだ」
彼は、クルーたちに向かって語り始めた。
「電子回路の歴史は、ノイズとの戦いの歴史だった。
よりクリアな信号を、より少ない電力で、より高速に伝えるために、我々はあらゆる工夫を凝らしてきた。
電圧駆動が主流になり、大電流を流す設計は敬遠された。
回路は小型化され、電子の移動距離は極限まで短くなった。
つまり…」
彼の言葉に、レイナが息を呑んで続けた。
「…私たちは、無意識のうちに、『反重力』や『重力』が発生する条件を、徹底的に排除してきたのよ…!
電流の変化を極力なくし、電子を動かさないようにする技術の進化が、皮肉にも、真理を発見する道を閉ざしていたんだわ!」
厄介なノイズ。
それは、電子回路が、空間という名の弦を弾いた時に生まれる、
微かな、しかし確かな『重力の響き』だったのだ。
「ならば!」大輔の声に、力がこもる。
「このノイズを解析すれば、この宇宙の物理法則…空間の『固有振動数』を割り出すことができるはずだ!
それが分かれば、我々のGEEドライブを、この宇宙の法則に完全に『チューニング』することができる!」
それは、暗闇の中に差し込んだ、一条の光だった。
絶望的な状況の中で、彼らは新たな羅針盤を手に入れたのだ。
「レイナ、全センサーの感度を最大に!
この宇宙の『声』を、一つ残らず拾うんだ!」
「航海士、ノイズパターンを、我々の銀河の背景放射データと比較しろ!
微妙な差異から、相対的な位置を割り出す手がかりが見つかるかもしれない!」
ブリッジに、再び活気が戻った。
クルーたちは、それぞれの持ち場に戻り、未知の宇宙を解読するという、壮大なミッションに取り組み始めた。
数時間後。
膨大なノイズデータの解析を続けていたレイナが、歓声を上げた。
「見つけたわ! この宇宙の、基本周波数! そして…信じられない…」
彼女は、驚愕の表情で大輔を見た。
「この宇宙の法則は、私たちのいた銀河系と、ほとんど同じ…。
でも、ほんの僅かに…『古い』わ。
まるで、私たちの銀河が、この銀河の、少し未来の姿であるみたいに…」
その言葉は、大輔の『玉ねぎ宇宙』論に、新たな、そして衝撃的な示唆を与えた。
ビッグバンが繰り返され、層状に宇宙が生まれていく。
それは、時間の流れも、一様ではないことを意味するのかもしれない。
外側の層ほど、時間が早く進む…?
だが、今はその謎を解き明かす時ではない。
「レイナ、その周波数を使って、GEEドライブの再キャリブレーションを!」
「了解!」
アルゴー号の船体が、再び微かに振動を始める。
GEEドライブが、この未知の宇宙の法則と、完璧に共鳴しようとしているのだ。
そして、再キャリブレーションが完了した瞬間。
これまでノイズとして認識されていたものが、クリアな『信号』へと変わった。
それは、遥か彼方から届く、人工的な、周期的なパルス信号だった。
ト…ツーツー…トツーツー…
「…これは…!」通信士が、叫んだ。
「モールス信号…!? いや、違う!
でも、明らかに、知性体からの信号です!」
彼らは、孤立してはいなかった。
この未知の銀河にも、知的生命体が存在し、彼らに向かって、何かを語りかけているのだ。
アルゴー号は、新たな羅針盤と、未知の呼び声に導かれ、ゆっくりと、その信号が発せられる方向へと、再び機首を向けた。
故郷への道は閉ざされた。
だが、その代わりに、宇宙の真の姿へと繋がる、新たな扉が、彼らの目の前に開かれようとしていた。
冒険は、まだ、終わらない。
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