第18話:ブラックホールの渦と双子の深淵

光速の壁を突き破った瞬間、アルゴー号のブリッジは、完全な沈黙に包まれた。


クルーたちは、言葉を失い、ただ目の前に広がる、人類が初めて目にする光景に釘付けになっていた。




そこは、「宇宙」ではなかった。


少なくとも、彼らが知る宇宙ではなかった。



漆黒の闇と、点在する星々の輝きはない。

代わりに、全ての色と光が反転したかのような、ネガフィルムの世界が広がっていた。

黒い太陽が白い光を吸収し、空間そのものが、まるで深海の水のように、重く、しかし透明に満ちている。

時間の流れは曖昧になり、思考は光よりも速く、それでいて永遠のようにゆっくりと感じられた。



「…これが…タキオンの深淵…」



航海士が、かすれた声で呟いた。


ここは、時空の『地下』。

物理法則が、我々の知るものとは異なる貌(かたち)を見せる、異次元の海だった。


「船体、安定しています」

レイナが、計器の数値を読み上げながらも、その声には隠せない興奮が混じっていた。


「GEEドライブは、この異次元空間の『水圧』に完全に適応しているわ。

すごい…古代の訪問者たちの理論は、完璧よ」


「目標、月軌道まで、あと10秒…9…8…」


カウントダウンが進む。人類初の超光速航行は、完璧な成功を収めるかに見えた。



その、瞬間だった。



警告。

前方に、高密度の時空歪曲を検知。

カテゴリー…ブラックホール級。



ブリッジに、けたたましいアラームが鳴り響いた。



前方のネガフィルムの空間が、まるで水面にインクを落としたかのように、一点を中心に急速に歪み始めた。


それは、渦だった。光さえも飲み込み、捻じ曲げる、完全な漆黒の渦。


「馬鹿な! こんな宙域に、ブラックホールが存在する記録はない!」

航海士が叫ぶ。


「いや、これは自然現象じゃない!」


キャプテンシートに座る大輔の目が、鋭く渦の中心を捉えていた。


「思い出せ! プールの底にできる、あの丸い影を!

あれは、水面にできた漏斗状の渦が、光を屈折させて作り出す幻影だ!

我々が今見ているものも、同じだ!」


彼の脳裏に、時田博士の書斎にあった、古びた物理学のメモが蘇る。


「これは、罠だ! 『調律者』、あるいはそれ以上の存在が、我々の超光速航行を妨害するために、人工的に作り出した時空の渦だ!

このままでは、渦に引きずり込まれ、船ごと時空の狭間に囚われる!」


渦の中心から放たれる引力は、もはやニュートン力学では説明できない、時空そのものの『落下』だった。


アルゴー号は、抵抗虚しく、ゆっくりと渦の中心へと引き寄せられていく。


「レイナ! GEEドライブの斥力場で抵抗を!」


「やっているわ! でも、相手の出力が上よ!

まるで、宇宙そのものをエンジンにしているみたい…!」


船体が、ギシギシと悲鳴を上げる。

ブリッジの照明が明滅し、クルーたちの顔に絶望の色が浮かんだ。

人類の新たな翼は、最初の飛翔で、無慈悲にへし折られてしまうのか。



極限の状況下で、大輔の思考は、さらに加速していた。

なぜ、渦なのだ?

なぜ、単純な破壊兵器ではない?

この形には、意味があるはずだ。




そして、彼は一つの可能性に思い至った。



「…渦は、一つじゃない…」



彼は、息を呑みながら、星図とセンサーのデータを重ね合わせた。


「レイナ! この渦が発生させている、微弱な重力波の干渉パターンを解析してくれ!

もし、この渦が単独で存在するなら、波形はもっとシンプルはずだ。

でも、この複雑なパターンは…近くに、もう一つ、同じ規模の時空歪曲源が存在することを示している!」


レイナは、大輔の意図を瞬時に理解し、コンソールを操作する。

解析結果は、すぐに表示された。


「…嘘でしょ…。あなたの言う通りよ、大輔君!

この渦と対になるように、観測不能な領域に、もう一つの『双子の渦』が存在するわ!」


その瞬間、ブリッジにいた全員が、大輔の狂気じみた閃きを理解した。


ホワイトホールは、発見されていない。

だが、ブラックホールは、存在する。

ワームホールは、ブラックホールとホワイトホールを繋ぐと言われている。

だが、もし、その常識が間違っていたら?


もし、ワームホールとは、ブラックホールとブラックホールを繋ぐ、見えざるトンネルだとしたら?


「僕たちの勝ちだ」


大輔は、静かに、しかし確信に満ちた声で言った。


彼は、キャプテンシートから立ち上がると、クルーたちに向かって、命令を下した。


それは、常識では考えられない、自殺行為とも思える命令だった。


「全クルー、衝撃に備えよ」


「レイナ、GEEドライブの斥力場を解除。

推進力を、最大船速で、あの渦の中心に向ける!」


「なっ…!」


「キャプテン、正気ですか!?」


クルーたちが、動揺する。渦に自ら飛び込むなど、狂気の沙汰だ。


「これは、賭けじゃない。

僕の理論が導き出した、唯一の活路だ!」


大輔の声には、揺るぎない自信が満ちていた。


「我々は、飲み込まれるんじゃない。

このトンネルを、『利用』するんだ!」


レイナは、一瞬ためらった後、強く頷いた。

彼女は大輔の理論を、誰よりも信じていた。


「了解。アルゴー号、進路、渦の中心へ。エンジン、最大!」


船は、抵抗をやめ、まるで運命を受け入れたかのように、漆黒の渦の中心へと、その機首を向けた。


そして、最後の加速を開始する。



渦に飲み込まれる瞬間、凄まじいGと空間の断裂が、アルゴー号を襲った。

景色は歪み、時間は引き伸ばされ、クルーたちの意識は、引き裂かれそうになる。


だが、船は消滅しなかった。


彼らは、時空のトンネル…ワームホールへと突入したのだ。


色も、音も、時間もない、純粋な『通路』を、アルゴー号は弾丸のように突き進む。


そして、永遠とも思える一瞬の後、彼らは眩い光と共に、再び『空間』へと吐き出された。



ブリッジが、静寂を取り戻す。



クルーたちが、恐る恐る顔を上げると、メインスクリーンには、信じられない光景が広がっていた。


そこは、地球も、月も、見慣れた星座もない、全く未知の星空だった。


巨大な紫色の星雲が渦を巻き、二つの太陽が、力強く輝いている。


「…ここは…」


「…どこだ…?」


彼らは、絶望的な危機を脱した。


しかし、その代償として、故郷の銀河から、何百万光年も離れた、見知らぬ場所へと飛ばされてしまったのだ。


アルゴー号のブリッジに、再び沈黙が訪れる。


だが、それは絶望の沈黙ではなかった。


恐怖と、畏怖と、そして、まだ誰も見たことのない宇宙を前にした、抑えきれない冒険心に満ちた、始まりの沈黙だった。




人類の真の冒険は、今、銀河を超えて、その幕を開けた。

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