第11話:足枷の記憶と超光速の夢

盆地へと続く最後の急斜面を、二人は滑り落ちるように駆け下りた。


背後からは、強化兵士たちの金属質な足音と、彼らを指揮する冷徹な声が追いすがる。もはや体力は限界に近く、一歩一歩が鉛のように重い。


「レイナ…なぜ…」大輔は、喘ぎながら絞り出すように言った。


「なぜ、人類は…光の速さを超えられないと、思い込んでいるんだ…?」


極限状態が生み出した、哲学的な問い。

レイナは、飛んでくる閃光弾を身を屈めてかわしながら、即座に答えた。


「アインシュタインの呪縛よ! 質量が無限大になるから、と。

でも、それは彼の相対性理論という『OS』の上での話。OSそのものを書き換えれば…!」


「そうだ!」大輔の目が、闇の中で爛々と輝いた。


「音速だって、かつては超えられない壁だった。

でも、人類はジェットエンジンという、空気を圧縮・爆発させる新たな『推進力』を手に入れて、音の壁を突き破った!

光速も同じだ! 超えられないのは、超えるための推進力がないからだ!

我々はその『力』を、もう手にしている!」


彼の言葉は、二人の内に秘められた、途方もない夢を呼び覚ました。


反重力。


それは、ただ浮遊したり、防御シールドを張ったりするための力ではない。

時空そのものを捻じ曲げ、星々の間を瞬時に駆け巡るための、究極の翼だった。


「三軸合力推進…!」レイナが、かつて大輔が語った夢想を口にする。


「ああ!」大輔は、盆地の中心部を指差した。


「X、Y、Z、三つの軸に、それぞれ光速の90%まで加速できる反重力推進器…GEEドライブを設置する!

それぞれの推力は光速未満。

しかし、その三つの力の合成ベクトルは…√3倍!

つまり、光速の約1.5倍に達する!」



その瞬間、彼らの脳裏に、壮大な光景が広がった。


三つの推進器が咆哮を上げ、宇宙船は一点に収束するように無限小へと圧縮される。次の瞬間、空間が三角錐状に引き裂かれ、光の円錐が一瞬だけ美しく輝き、船は跡形もなくワープする。それは、物理法則という名の足枷から、人類が完全に解放される瞬間だった。


「…スタートレックみたいね」レイナが、絶望的な状況の中で、ふっと笑みを漏らした。


だが、その夢想は、無慈悲な現実によって断ち切られた。

盆地の入り口で、行く手を阻むように、二体の強化兵士が待ち構えていたのだ。

彼らはもはや人間ではなかった。全身を黒い強化外骨格(エクソスケルトン)で覆い、その手には、プラズマを帯びたブレードが鈍い光を放っている。


「『鍵』は渡してもらう」


合成音声のような声が、盆地に響き渡った。



絶体絶命。

後方からは追手、前方には鋼鉄の門番。



その時、大輔が握りしめていた方位磁針が、これまでで最も激しく振動し、カチリ、と小さな音を立てた。まるで錠前が開くかのように。


そして、信じられないことが起きた。

盆地の地面が、静かに、しかし確実に震え始めたのだ。



「何…!?」



強化兵士たちが動揺する。

彼らの足元の地面、その古代の隕石孔の中心から、淡い青色の光が漏れ出し始めた。


まるで、永い眠りから目覚めた巨大な生命体が、呼吸を始めたかのように。

地面に刻まれていた、幾何学的な模様が光の回路となって浮かび上がる。


それは、地球上のいかなる文明にも属さない、未知のテクノロジーだった。



時田博士が二人を導いた場所は、単なる地磁気の特異点でも、古代のクレーターでもなかった。



そこは、遥かなる太古の昔、この星を訪れた何者かが遺した、宇宙船の発着ポート…あるいは、それを動かすための、巨大なエネルギー供給施設そのものだったのだ。


盆地全体が、一つの巨大な「Nマシン」として機能し始めた。


地中深くで、超巨大な導体が地球の自転と共に磁場を切り裂き、凄まじい低電圧・大電流を生み出している。


その力が、地表に刻まれた未知の回路を通じて、盆地の中心へと集束していく。


「…嘘でしょ…。博士は、この場所を知っていて、私たちを…」


レイナは、時田博士の深遠な知略に、戦慄した。


中心部に集まった莫大なエネルギーは、一つの現象を引き起こした。

それは、この場所に漂う大気を、僅かに、しかし確実に『拡張』させた。

つまり、局所的な、しかし強力な反重力場の発生だ。


強化兵士たちの動きが、目に見えて鈍くなる。

反重力場が、彼らの強化外骨格のサーボモーターの動きを阻害し、関節部を微妙に膨張させて軋ませているのだ。



「レイナ! 今だ!」


大輔は叫んだ。



レイナは、博士から託されたデータチップに記されていた、もう一つの理論を瞬時に理解した。


「『足場』を作るのね!」



彼女はコンソールを操作し、博士の安定化理論を応用した微弱な斥力パルスを、前方の強化兵士の一体の足元に放った。


それは、攻撃ではない。


その兵士の足元の空間だけを、ほんの一瞬、光速に近づくほど極限まで『収縮』させたのだ。


相対性理論に従い、その兵士の足元の質量は、一瞬だけ無限大に近づき、時空に『固定』された。


その兵士は、動けなくなったのではない。

自らが、宇宙船を蹴り出すための、不動の『足場』と化したのだ。


「飛んで!」


レイナは、その『足場』となった兵士をめがけて、今度は自分たちに向けて、斥力場を解放した。


二人の体は、まるで大砲から撃ち出された弾丸のように、凄まじい勢いで前方へと射出された。


プラズマブレードを振りかざしたもう一体の強化兵士の頭上を飛び越え、盆地の中心部、青い光が最も強く輝く地点へと、吸い込まれるように着地した。


光の中心に立った瞬間、世界から音が消えた。


追手の声も、風の音も、自分たちの呼吸さえも聞こえない。

ただ、足元から響く、星の鼓動のような、心地よい振動だけが二人を包み込んでいた。


そして、彼らの目の前に、地面からゆっくりと、光で出来た螺旋階段がせり上がってきた。それは、地下へと続く、未知への入り口だった。


二人は、迷うことなく、その光の階段へと足を踏み入れた。



人類の冒険は、今、地球という揺りかごを離れ、星々の遺産へと、その手を伸ばそうとしていた。


////


 ※GEEドライブ(ジードライブ):Gravity Efect Engine 重力効果エンジン(推進機関)。重力・反重力の効果を活用した非噴射型(クローズド)の推進機関。文中では、過去話で振動モータのケースで説明されている。宇宙空間の航行用としては、荷電粒子を加速、末端到達時に0G環境下で受け止めることで、運動エネルギーを0とすることにより、反動をキャンセル、結果として推進力だけが生じる。なお、船体(特に居住空間)をできる範囲で0G化することにより、船体が軽くなるため、加速効率が上がるのと、居住空間の重さ減少は、乗務員にかかるGを減少させて、急加速にも耐えることができる。


 ※三軸合力推進:GEEドライブをXYZ直行座標に沿って3機配置。1つ1つのGEEドライブが、光速度の90%まで加速できるとした場合、XYZ三軸の合成ベクトルは、√3(約1.73)となる。つまり、光速度の90%x1.73倍=1.55倍となり、光速度を上回る。


 ※光速度一定:筆者の解釈では、光速度は「空間(エーテル)が持つ伝搬特性」のこと。アインシュタインは、「光速度を一定」とし、これをすべての物理現象の「ものさし」としたため、原理上、「光速度」を超えることができない(数式が0か無限大になる)。つまり、偶然「光速度」に目をつけ、これを基準とした理論体系であるため、筆者自体は、必ずしも現実の空間が超光速を否定しているわけではないと推測している。

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