第10話:ボイドの静寂と反粒子の囁き
息が燃え尽きそうだ。
心臓が肋骨を内側から激しく叩き、肺は灼熱の空気を求めて喘いでいる。
大輔とレイナは、もはや道なき道を、獣のように駆け抜けていた。
背後からは、軍用犬の獰猛な咆哮と、強化兵士たちの規則正しい、しかし人間離れした足音が、まるで死の秒読みのように迫ってくる。
木々の間を縫い、岩を飛び越える。
その極限状態の中で、大輔の意識は奇妙なほど冷静に、宇宙の更なる謎へと飛翔していた。
「レイナ…!」彼は、途切れ途切れの息の中で叫んだ。
「宇宙は…なぜ、泡立っているんだ…?」
「泡…?」レイナは、追手の位置をコンソールで確認しながら、眉をひそめた。
「銀河の泡構造(スーパーボイド)のこと? 銀河団がフィラメント状に連なって、その間に何もない巨大な空洞…ボイド空間が広がっている…」
「そうだ! だが、その『何もない』というのが、そもそもおかしいんだ!」
大輔の足が、ぬかるんだ地面を力強く蹴った。
「ビッグバンで生まれたエネルギーは、均一に広がったはずだ。
なぜ、これほど偏りが生まれる?
なぜ、星々が集まる場所と、絶望的なまでに何もない場所が生まれるんだ?
ボイド空間は、『無』じゃない。
そこは、僕たちの知らない『何か』で満たされているはずだ!」
彼の言葉に、レイナはハッとした。
彼女の脳裏に、大輔の過去の理論が稲妻のように結びつく。
「…物質と、反物質…!」
「その通り!」大輔の声に、真理を発見した者の歓喜が満ちていた。
「僕たちの知る正物質が、重力という『収縮する力』に引かれて集まり合うなら、その鏡像である反物質は、その逆…重力に対して『斥力』を感じるのではないか!?」
二人は、険しい尾根の頂上にたどり着いた。
眼下には、月光に照らされた広大な森が広がっている。
しかし、休む間はない。
大輔は、荒い息を整えながら、壮大な宇宙創生のビジョンを語った。
「ビッグバンで、同量の正粒子と反粒子が生まれた。
僕たちの世界が加速膨張する宇宙、つまり『正の重力世界』であるため、正粒子は互いに引き合い、集まり、水素原子となり、星となり、銀河という巨大な家族を形成していった。
だが、反粒子は違う!
斥力を感じた彼らは、重力の発生源から逃げるように、弾かれるように、ひたすら遠ざかり続けた!」
彼の指が、星のない夜空の闇を指し示す。
「そして、その逃げ続けた反粒子たちが吹き溜まった場所こそが、ボイド空間の正体なんだ!
ボイドは、光さえ反射しない単離した反陽子や陽電子の海。
だからこそ、僕たちには『何もない暗黒』にしか見えない。
僕たちが観測している宇宙背景放射は、そのボイドの岸辺から、ごく稀に形成された反原子が漏れ出してくる、微かな光の名残なのかもしれない!」
それは、宇宙に満ちる反物質がどこへ消えたのか、という現代宇宙論最大の謎に対する、あまりにも鮮やかで、恐ろしいほどの説得力を持つ答えだった。
「…ボイドは、反物質の狩り場になる…」レイナは、その仮説の先に待つ未来を幻視し、身震いした。
「単離しているから、電磁気力で容易に分離・回収できる。無限のエネルギー源…!」
追手の組織が、なぜこれほど執拗なのか。
その理由がまた一つ、明らかになった。
その時、背後の茂みが激しく揺れ、鋼鉄の光沢を放つ強化兵士が、獣のような跳躍で姿を現した。そのスピードは、常人の数倍にも達している。
「逃がさない!」
強化兵士が構えた特殊警棒が、青いスパークを散らした。
「レイナ!」
大輔が叫ぶより早く、レイナは動いていた。
彼女は地面に手をつくと、腕時計型コンソールを操作。
博士のデータチップから応用した、斥力場の微小パルスを足元の岩盤へと撃ち込んだ。
ゴゴゴゴゴ…!
不安定な足場が、内部からの『拡張する力』によって脆く崩れ、小規模な崖崩れを引き起こした。
強化兵士は体勢を崩し、土砂と共に数メートル滑り落ちる。
「今のうちよ!」
二人は再び走り出す。
だが、敵は一人ではなかった。森の各所から、複数の強化兵士が包囲網を狭めながら迫ってくる。
「このままじゃジリ貧だわ…!」レイナが歯噛みする。
その時、大輔が握りしめていた方位磁針が、これまで以上に激しく震え始めた。
針が指し示す先は、この尾根を下った先にある、不自然なほど平坦に見える盆地だった。
「レイナ、博士が私たちを導いた場所…地磁気の特異点だけが理由じゃないかもしれない!」
大輔は、方位磁針をレイナに見せた。
「博士の専門は、宇宙物理学だけじゃなかったはずだ!
この星のことも、知り尽くしていたはずだ!」
レイナは即座にコンソールの衛星地図と地質データを照合した。
そして、目を見開いた。
「…嘘でしょ…。この盆地は、巨大な隕石孔…クレーターの跡だわ。
しかも、地質年代が一致しない。周囲の地層より、遥かに…『若い』」
「若いクレーター…?」
「ええ。そして、その中心部からは、この星の固有のものではない、未知の同位体元素が微量に検出されている…。
記録では、原因不明の自然現象として処理されているけど…」
二人の脳裏に、一つの可能性が浮かび上がった。
時田博士が指し示した場所は、単なる物理的な特異点ではない。
そこは、かつて、この星の者ではない『何か』が訪れた場所。
あるいは、人類の知らない、大いなる遺産が眠る場所なのかもしれない。
方位磁針は、ただの道標ではなかった。
それは、新たな謎と、希望へと繋がる、賢者からの最後の招待状だったのだ。
彼らの目的地は、もう目前に迫っていた。
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