第9話:ダブルトーラスの幻影と賢者の道標
爆風は、巨大な龍の咆哮となって八ヶ岳の森を揺るがした。
天文台があった場所は、天に昇る巨大な火柱と化し、追手の包囲網を一瞬にして混乱と光の渦に叩き込んだ。
その眩い閃光は、老賢者がその身を賭して二人へ贈った、最後の道標だった。
大輔とレイナは、土と硝煙の匂いが混じり合う闇の中を、ただ無我夢中で駆けた。
背後で炸裂する二次爆発の轟音と、追手たちの怒号が、鼓膜を激しく打ち続ける。
時田博士の最後の笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。
悲しむ暇も、感謝を口にする暇さえなかった。託されたものの重さが、二人を前へ、前へと突き動かしていた。
夜明けの薄明かりが森に差し込み始めた頃、彼らは山中の深い渓谷に隠された、古い洞窟に身を滑り込ませた。
冷たく湿った空気が、火照った体を冷やしていく。
追手の気配は、ひとまず遠のいていた。
「…博士は…」レイナの声が、震えていた。
彼女の強気な仮面が、初めて剥がれ落ちていた。
「私たちを逃がすために…」
「彼の遺志を無駄にはできない」大輔は、レイナの肩を強く握った。
その手には、時田から託された古風な方位磁針が、ずっしりと重く感じられた。
針は北を指さず、ひたすら南西の一点を指して微かに震え続けている。
まるで、生き物のように。
レイナは涙を拭うと、気丈にも顔を上げ、時田から受け取った黒いデータチップを取り出した。
腕時計型のコンソールに接続すると、画面に膨大な量の暗号化されたデータが流れ込む。
「博士の…遺産。必ず、解読してみせる」
彼女が暗号解読に没頭する傍らで、大輔の思考は、再び宇宙の深淵へと潜り始めていた。
時田の最後の言葉、『真の円周率』。
それは、単なる数学的な定数ではなかった。
この宇宙の根源的な設計図、そのものだ。
「なぜ、螺旋なんだ…?」大輔は、洞窟の壁に染み出した水滴が描く、不規則な模様を見つめながら呟いた。
「宇宙が、原子が、全てが螺旋を描いているとしたら…その最小単位である『電子』も、ただの点や球体であるはずがない…」
彼の脳裏に、かつて思い描いた一つの幻影が、鮮やかな輪郭を持って浮かび上がった。
「…ダブルトーラス…!」
レイナが、暗号解読の手を止めて顔を上げた。
「ダブルトーラス? ドーナツを二つ重ねたような形…?」
「そうだ!」大輔の目に、狂気と紙一重の天才の輝きが宿った。
「電子は、ただマイナスの電荷を持つ球じゃない!
だからこそ、静電気のように信じられない量の電子が一箇所に密集できるし、超電導のように反発し合うはずの電子がペアを組めるんだ!」
彼は洞窟の湿った土を指でなぞり、奇妙な8の字を描いた。
「電子は、8の字を描きながら周回するエネルギーの渦だ!
ドーナツの両極の穴で負の電荷を吸収し、そのくびれ部分から、弱い正の電荷を放出している!
だからこそ、互い違いに並べば、反発せずに密集できる。
まるで小さな磁石のように、向きを変えることで引き合いもする!
これが、クーパー対の正体だ!」
「そして…」彼の声に熱がこもる。
「その螺旋状の渦の構造、その曲率を決めているのが、時田博士の遺した『真の円周率』なんだ!
博士の計算式は、この宇宙の最小単位の形を記述する、究極の設計図なんだよ!」
その瞬間、レイナのコンソールが、軽やかな音を立てた。
暗号解読、完了。
第一階層、アクセス可能。
画面に表示されたのは、無数の数式と、一つの設計図だった。
それは、大輔が今まさに語った『ダブルトーラス構造』を持つ電子の挙動をシミュレートし、それを制御するための、反重力リアクターの安定化回路図だった。
「…博士は、ここまで辿り着いていたのね…」レイナは、畏敬の念に打たれ、言葉を失った。
二人は顔を見合わせた。
もはや迷いはなかった。彼らの理論は、仮説ではなくなった。
そして、その理論を現実にするための設計図も、今、この手にある。
「行くぞ、レイナ」大輔は、方位磁針を強く握りしめた。
「この針が指し示す場所へ」
洞窟を出た二人の前には、険しい獣道が続いていた。
だが、それはもはや絶望の逃走路ではなかった。
賢者が遺した道標が、人類の未来へと続く、確かな一本の道を示していた。
しかし、安息の時間は短かった。
遠く麓の方から、複数の犬の咆哮と、金属的な足音が聞こえてくる。
追手は、軍用犬と、人間離れした脚力を持つ強化兵士を投入してきたのだ。
「しつこい奴ら…!」
レイナは歯噛みし、大輔は方位磁針が示す方向を睨んだ。
「この渓谷を抜け、南西の尾根に出る! そこが一番の近道だ!」
新たな追跡劇が始まった。
それはもはや、闇に紛れた逃走ではない。
明確な目的地を目指す、強靭な意志を持った旅だった。
彼らの足跡は、いずれ歴史となり、彼らが目指す場所は、人類の新たな創生の地となる。
そのことを、今はまだ、宇宙と、彼ら自身だけが知っていた。
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