第8話:螺旋の円周率と賢者の遺産

時田博士の天文台は、宇宙の息遣いが聞こえるような静寂に満ちていた。


巨大な望遠鏡が、まるで天を突く巨人の指のように、一点を見つめている。


大輔とレイナは、この追放された賢者を前に、自分たちが辿り着いた全ての仮説を、洗いざらい打ち明けた。




加速膨張する宇宙が生み出す重力。

その逆である反重力の『拡張する力』。

そして、その根源にある、ビッグバンを繰り返す『玉ねぎ宇宙』の構造。




最後に、その証拠となる、二つのハッブル定数の存在。




時田は、コーヒーの香りが立つ古びたマグカップを片手に、黙って二人の言葉に耳を傾けていた。


その目は、時に鋭く、時に懐かしむように細められ、感情の奥底を読むことはできない。




全てを語り終えた大輔が、固唾を飲んで博士の審判を待った。



「…戯言(たわごと)だな」



時田は、一言そう呟くと、ゆっくりと立ち上がった。

だが、その言葉とは裏腹に、彼の口元には抑えきれない笑みが浮かんでいた。



「だが、久々に心躍る戯言だ」



彼は壁一面を埋め尽くす膨大な記録媒体の中から、一枚の光ディスクを取り出すと、ホコリを払い、大型ディスプレイに挿入した。


映し出されたのは、大輔たちが見たものと同じ、ハッブル定数の分布図。

しかし、そのデータ量は比較にならなかった。

何十年にもわたる、孤独な観測の結晶。

グラフに現れた二つのピークは、もはや疑いようのない、鋭い槍の穂先となって天を突いていた。


「お前さんたちの仮説は、正しい」時田は断言した。

「この宇宙は、我々が認識しているよりも遥かに巨大で、古く、そして複雑な構造を持っている。

わしが学会を追われたのは、まさにそのことを主張したからだ」



彼の声に、長年の鬱憤と、真理への渇望が滲む。


「宇宙の年齢がたった138億年だと?

馬鹿を言うな!

我々の足元にあるこの地球を見てみろ。

ウランやプルトニウムといった重い元素が、当たり前のように存在する。

これらは、並の恒星核融合では生まれん。

何度も、何度も、超新星爆発という宇宙の坩堝(るつぼ)で練り上げられて、ようやく生まれる代物だ。

138億年ぽっちの時間で、これほど豊かな元素を持つ惑星が誕生できるものか!

我々の太陽系は、何世代にもわたる星々の死と再生の上に成り立っているのだよ!」



彼の言葉は、大輔とレイナの仮説に、揺るぎない確信を与えた。



しかし、時田は「だが」と続けた。



「お前さんたちの『玉ねぎ宇宙』ですら、まだ真実の表層を撫でたに過ぎん」


彼は、壁に貼られた一枚の、黄ばんだ計算用紙を指差した。


そこに書かれていたのは、延々と続く数字の羅列と、奇妙な記号だった。


「この宇宙の法則を真に理解したければ、我々が『常識』と信じ込んでいる土台そのものを疑わねばならん。

例えば…全ての幾何学の基礎。円周率だ」


「円周率…?」レイナが眉をひそめる。


だが、大輔は、まるで雷に打たれたかのように目を見開いた。


「まさか…! そうか!

静止した世界での円周率は、3.14159…で不変だ。

しかし、僕たちのいるこの空間は、この瞬間にも『加速膨張』している!

その中で描かれる円は、厳密には完全な円ではなく、僅かに外側へ膨らむ『螺旋軌道』を描いているはずだ!

スタート地点とゴール地点が、完全に一致しない…!」



「その通りだ、小僧!」時田の目が、カッと見開かれた。



「故に、この動的な宇宙における『真の円周率』は、静止宇宙のそれよりも、僅かに、しかし決定的に長くなる!」


彼は続けた。


「そして、その計算不能とされてきた『僅かな誤差』こそが、この宇宙に満ちる莫大なエネルギーの源泉…いわゆる真空エネルギーの正体であり、お前さんたちが作ろうとしている反重力リアクターを安定させ、制御するための、最後のマスターキーだ!

追手の連中が血眼になって探している『鍵』の正体…それは、この『真の円周率』を導き出す、究極の計算式なのだよ!」



その瞬間、全ての謎が一本の線で繋がった。

反重力、超光速通信、そしてフリーエネルギー。

その全てを支配する鍵は、宇宙の形そのものに刻まれた、この神の数字にあったのだ。


興奮と畏怖に二人が言葉を失った、その時だった。




警告。

複数の高速飛翔体接近。

識別コード、軍用。

地上部隊も包囲網を形成中。




天文台の古い警報システムが、けたたましいアラームを鳴り響かせた。

窓の外で、木々が不自然にざわめき、サーチライトの光がいくつも交錯する。


「話はここまでだ」時田の表情から、笑みが消えた。

「奴ら、わしの庭の防衛システムごと、この山を消し去るつもりらしい」


彼は動揺する二人を制すると、机の隠し引き出しから、一枚の黒いデータチップと、古風な方位磁針を取り出した。


「レイナ君、君の技術なら、このチップの量子暗号を解けるはずだ。

わしが長年かけて計算した、『真の円周率』の近似値と、それを応用したリアクターの安定化理論が入っている。そして大輔君…」


彼は方位磁針を大輔の手に握らせた。

それはただの方位磁針ではなかった。

針は北を指さず、ある一点を指して微かに震え続けている。


「それは、この星で最も強い地磁気の特異点を指し示している。

そこは、地球の『拡張する力』と『収縮する力』が均衡を保つ、ゼロポイントだ。

反重力の研究を続けるには、そこへ行くしかない」




ドゴォォォン!!!




天文台のドームが、外部からの攻撃で激しく揺れた。

天井が軋み、崩落が始まる。


「行け!!」時田は、本棚の裏に隠された脱出口を指し示し、叫んだ。


「わしはここで、奴らに最後の『花火』をプレゼントしてやる!

人類の未来を、お前たちに託したぞ!」


それは、賢者からの最後の遺言だった。


躊躇する二人を、時田は有無を言わせぬ力で脱出口へと押しやった。

背後で、彼が巨大な望遠鏡の制御盤を操作し、エネルギーを過充填させていくのが見えた。





爆風と閃光が、二人を闇の中へと突き飛ばす。




振り返った彼らの目に最後に映ったのは、自らの知の城と共に、光の中に消えていく老科学者の、満足げな笑顔だった。

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