第3話
週の真ん中、水曜日。
校舎の窓から差し込む昼の光は、どこか柔らかくて、眠気を誘ってくる。
「……久城、起きろ。授業終わったぞ」
「ん……あ、やばっ」
顔を上げた瞬間、教室の半分以上が立ち上がっていて、先生もすでに教卓から消えていた。
「お前ほんと、寝顔だけは平和だな」
「それ褒めてないよな?」
隣で苦笑いしているのは、クラスメイトの中澤。
このところ妙に俺の周囲に絡んでくるようになったのは、たぶん昨日の件――神埼天音の隣に座っていることがきっかけだろう。
「にしても、天音ちゃんヤバくね? 昨日の中庭のアレ、なんだったんだよ。お前、ホントに何もしてねーよな?」
「何もしてねーよ……ただ、話しかけられただけ」
「それが事件なんだっての! あの笑顔、マジで落とす気だったろ」
「落とされてねーから安心しろ」
それでも、中澤はなぜか納得していない顔をしていた。
そして、もうひとつの視線が、後ろから突き刺さってくるのに気づく。
ちらりと振り返ると、白崎澪がじっとこっちを見ていた。
視線が合った瞬間、すぐにそらされる。
だけどその仕草に、どこか“隠している想い”が滲んでいるようで――心の中がざわついた。
午後の授業が終わって、廊下を歩いていると、澪が声をかけてきた。
「ねえ、悠真。ちょっと寄り道してかない?」
「いいけど……どこに?」
「秘密。ついてきて」
それだけ言って、スタスタと歩き出す。
昔からこういうところがあった。ぐいぐい引っ張っていくくせに、肝心なことは言わない。
だけど、俺は逆らえない。
たぶん、いつもそれに流されてきたから。
連れてこられたのは、川沿いの土手だった。
小学校のとき、帰り道に必ず寄っていた場所。
桜の木が一本だけあって、今は新緑が気持ちよく揺れている。
「懐かしいね、ここ」
「……ああ」
「悠真、覚えてる? 小三の夏、ここで私、転んで泣いたの」
「あー、あったな。お前、膝から血が出て、めちゃくちゃ大泣きしてた」
「その時、悠真がハンカチで拭いてくれてさ。“泣いてたら治るもんも治らねーぞ”って。カッコつけすぎてて、今思えば笑えるよね」
「いや、それ俺も覚えてるわ。今の俺じゃ言えないセリフだな」
澪はふふっと笑ったあと、真剣な表情に戻った。
「……でもね、あれが最初だったんだよ。
私が“悠真くんのこと、特別だ”って思ったの」
思わず息をのむ。
彼女の声は静かで、だけど確かな熱を帯びていた。
「誰よりもそばにいて、誰よりも私のことを気にかけてくれて。
気づいたら、悠真が笑うだけで一日が幸せになるようになってて……」
「澪……」
「今さら言うの、ずるいよね。でも……私、ちゃんと伝えたくて」
その瞬間、風がふわりと吹き抜けて、彼女の髪を揺らした。
桜の葉がはらりと舞って、まるで映画のワンシーンみたいな情景になる。
「私の気持ちは、今でもあの時のまま。
でもね、今の悠真は“選ばれる側”になっちゃった。だから私、怖くて……焦ってるんだと思う」
彼女の言葉は、全部本音だった。
心の底に閉じ込めていた気持ちを、少しずつ外に出して、ようやくここまで届いた想い。
「……ありがとな。ちゃんと聞けて、嬉しかった」
それが答えじゃないことくらい、俺自身が一番わかってた。
でも、それでも彼女は、笑ってくれた。
「うん。それだけで十分。今は、それだけで」
家に帰る途中、スマホにメッセージが届いた。
《From:神埼天音》
『明日、少しだけ時間くれないかな? 話したいことがあるの』
澪の告白めいた言葉がまだ胸の奥に残っている。
そのタイミングで届く、別のヒロインからの誘い。
頭が追いつかない。
だけど、確かに物語は進んでいる。
“誰かのルート”に入っていくたびに、誰かの心が揺れていく。
それが、この“恋愛ゲーム”の、最も残酷な部分なのかもしれなかった。
翌朝、いつもと同じ時間に学校へ着いたはずなのに、教室は騒がしかった。
「ねぇねぇ、見た? 天音ちゃん、今日も隣の席だよ!」「ほんとに話してるし……マジで羨ましすぎる……!」
席に着くと、すでに神埼天音は隣にいて、何やら手帳を眺めていた。俺が着席すると、すぐに顔を上げる。
「おはよう、悠真くん」
「……おはようございます」
「昨日のメッセージ、見てくれた?」
「あ、うん。放課後だよね」
「うん。中庭で待ってるね」
それだけ言って、天音は微笑んだ。けれどその笑みの奥に、何か含んでいるような気配がして、俺は言葉を失う。
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(白崎澪 視点)
昼休み、澪は一人で屋上にいた。
おかずを詰めた手作りの弁当を膝に置いたまま、彼女はずっと空を見ていた。
――わかってる。天音さんと悠真が、少しずつ近づいているのを。
わかってるけど、どうしても割り切れない。
だって、昨日はあんなに優しく聞いてくれたのに。あんなに、ちゃんと私の話を受け止めてくれたのに――
「……どうして、また揺れるのよ」
心の中で呟いたその言葉に、誰かが応えるように扉が開く。
「先輩、また一人でお昼?」
紬だった。悠真の妹。
ポニーテールを揺らしながら歩いてきて、澪の隣に腰を下ろす。
「珍しいね、先輩が一人なんて。お兄ちゃんは?」
「……さあ。たぶん天音さんと一緒じゃないかな」
「ふーん。やっぱり、近づいてるんだ」
淡々とした口調。でも、その奥にある静かな怒りみたいなものを、澪は感じた。
「紬ちゃん……もしかして」
「好きですよ。お兄ちゃんのこと」
ストレートな告白に、澪は息をのんだ。
「血が繋がってないって知った時、ちょっとだけ期待した。でも、私がどれだけアピールしても、気づいてくれない」
「……悠真は、そういうとこ鈍感だから」
「うん。でも、それが好きなんです。だから余計に……誰にも渡したくないって、思っちゃう」
紬の瞳はまっすぐだった。
あどけなさを残す顔に、強い意志が宿っていた。
「先輩も……そうでしょ?」
「……うん。私も、そう思ってる」
ふたりは並んで座ったまま、しばらく空を見上げていた。
心の中に、同じ誰かを思いながら。
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放課後、俺は中庭へ向かった。
ベンチの前に立つ天音は、制服の袖をそっと直して、こちらに振り返る。
「来てくれて、ありがとう」
「いや、別に……暇だったし」
「ふふ、素直じゃない」
それから天音は、鞄の中から一枚のメモを取り出す。
「これ、私のソロプロジェクトの概要。
プロデューサーがね、“新しい作曲家を起用したい”って言ってるの。悠真くんに、一度会ってほしいって」
「……え? いや、でも俺、そんな……」
「あなたの曲、聴いたよ。ネットで公開してるやつ。
言葉選び、音の重ね方、どれも繊細で――まるで心の奥に直接届くみたいだった」
一言ひとことが、心に刺さる。
「ねえ、悠真くん。私、今までたくさんの“作られた恋”を演じてきたけど、本当に惹かれた人なんて、初めてだったかもしれない」
天音はそう言って、そっと手を差し出した。
「一緒に、新しい曲を作らない? 私だけの――君だけの音を」
その手を取ろうとした瞬間――
ふいに、どこかから強い視線を感じた。
振り返ると、遠くの校舎の窓。
そこに立っていたのは、白崎澪と、紬だった。
どちらも、何も言わずに、ただ俺たちを見つめていた。
心の中に火種が灯る音がした。
小さな火は、ゆっくりと、しかし確実に燃え広がっていく。
“ルート”は、もう動き出していた。
誰も止められない恋と修羅場の物語が、ここから本格的に幕を開ける。
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