第2話

放課後のチャイムが鳴っても、澪は教室の席から立ち上がろうとしなかった。

その視線は、前を向いているのにどこか空虚で、何かを飲み込んでいるような気配がある。


「おい、白崎。帰んねーの?」


冗談めかして声をかけると、彼女はピクリと反応し、やがてゆっくり顔を上げた。


「……ううん、ちょっと考えごとしてただけ」


それだけ言って鞄を持ち上げる。

だけど、背中に滲む疲れが気になった。


外に出ると、空は茜色に染まり始めていて、吹き抜ける風が制服の裾を揺らす。

校門の前で立ち止まる澪の横顔は、何かに戸惑っているようにも、決意しているようにも見えた。


「悠真」


「ん?」


「もし……もしもだけど、これから先、私以外の子が“ヒロイン”として登場したら……どうする?」


「……何の話?」


聞き返すと、澪は口を結び、ほんのわずかに目を伏せた。


「ううん、なんでもない。忘れて」


それはきっと、澪の“本音”だった。


彼女の中で、何かが動き始めている。

そして俺自身、今まで当たり前にいた澪の存在を、少しずつ“異性”として意識し始めている自分に気づいていた。


けど、それを言葉にするには早すぎた。


次の日、登校すると廊下が妙にざわついていた。

視線の先には、制服姿の神埼天音が立っていた。


周囲の生徒たちは声を潜め、アイドルに対する尊敬と興奮を隠しきれていない。


天音は、俺の隣の席に座っている。

昨日、自己紹介の直後に当然のようにそこに現れた。


「おはよう、悠真くん」


「……お、おはよう」


あっさりと名前を呼ばれて、俺は返す言葉に少し詰まった。

隣でノートを開く天音の姿に、クラスの視線が集中しているのを感じる。


「相変わらず、注目浴びてるな」


「そりゃ、芸能人だからね」


彼女はさらりと答え、ペンをくるくると回した。

俺に対して、なにかを試すような視線を投げかけてくる。


(……なんなんだ、この空気)


たしかに、天音は美人だ。声もきれいで、振る舞いにも品がある。

だけど、どこか“わざとらしさ”を感じるのは、気のせいじゃない気がしていた。


澪の言っていた「第一の分岐点」。

それが、彼女なのかもしれない。


昼休み。俺は屋上へ逃げた。

ここは澪と一緒に弁当を食べる、昔からの秘密基地みたいな場所。


「悠真くん」


その声に振り返ると、澪が立っていた。

わずかに早足で来たせいか、頬が赤い。


「……今日も、天音さんの隣だったね」


「まあ、席が決まってるからな」


「でも、話してたよね。……楽しそうに」


「……え、そんなことないけど?」


少しだけ澪の声が刺々しくなったのは、気のせいじゃない。


彼女は俺の隣に腰を下ろし、弁当の蓋を静かに開けた。

口に運ぶ仕草はいつも通りなのに、どこかぎこちない。


「ねえ、悠真くん。……私のこと、ヒロインとして意識してる?」


ストレートな言葉に、思わず箸を止めた。


「い、いや、そりゃ……お前、ずっと一緒にいて……」


「うん。でも、そうじゃなくて。“恋愛対象”として、私を見てる?」


その問いに、俺は答えられなかった。


澪の目がまっすぐで、嘘がつけそうになかったから。


夕方。下駄箱の前で、また声をかけられた。


「お兄ちゃん、ちょっといい?」


妹の紬が、こっそり近づいてきた。

後ろにはクラスメイトの視線がちらちらと飛び交っていたが、紬はまったく気にしていない。


「屋上で何話してたの?」


「別に。澪とちょっと、弁当食べてただけ」


「……ふーん。そっか。でもさ、澪先輩、最近ちょっと変じゃない?」


「変って……何が?」


「目つき。まるで、獲物を見てるような」


紬の口調は軽いけど、その奥にある何かを探るような視線が怖かった。


「ねえ、お兄ちゃん。“誰かを選ぶ”って、どういうことか分かってる?」


「……え?」


「一人を選ぶってことは、それ以外を切るってことだよ? 優しくするのはいいけど、その優しさが誰かを傷つけるかもしれない」


その言葉は、胸に深く刺さった。


俺は何も考えずに、ただ“いい奴”でいようとしただけだったのに。


澪、天音、紬。

誰もが少しずつ、“ただの関係”を脱ぎ捨てようとしていた。


そして俺だけが、何も選べないまま、そこに立ち尽くしている。


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(白崎澪 視点)


悠真と天音さんが並んで座ってるのを見るだけで、胸の奥がざわついて仕方がない。

今まで何年も隣にいたはずなのに、ほんの数日の関わりで簡単に入り込まれていくことが、怖くてたまらなかった。


私は知ってる。この世界のシナリオを。

ゲーム『月灯のフォークロア』における彼女の役割を。


――神埼天音は、最初のルートのヒロイン。

選ばれた時点で、ほかのヒロインすべてを蹴落とす強制力が働く“真ヒロイン”だった。


だから、怖い。

ルートに入ったら、彼はもう私の隣には戻ってこない。


「……まだ、始まってない。大丈夫、大丈夫」


口にしても不安は消えなくて。

放課後、私は誰にも言わず、屋上へ向かった。


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夕焼けが落ちてきて、教室の喧騒も静かになっていく。

帰り支度をしようと立ち上がったところで、澪に呼び止められた。


「少しだけ……いい?」


その声は、いつもよりずっと小さくて、けれど真剣だった。

俺はうなずいて、彼女の後ろをついていく。


廊下の奥、人気のない階段下の踊り場。

外からの光が淡く差し込むその場所で、澪はそっと立ち止まった。


「ねえ、悠真くん。今日の昼……ごめん。ちょっと、変だったよね」


「いや、別に。気にしてない」


「……でも、気づいてたでしょ? 私が焦ってるってこと」


図星だった。俺には分かってた。

彼女が何かを必死にこらえていたこと。天音とのやりとりに、何か感じていたこと。


「私は、他のヒロインみたいに強くないよ。自信もないし、特別な才能もない。ただ、昔から隣にいただけ。……でも、それが、どうしようもなく大きいんだよ」


ゆっくりと手を伸ばし、俺の袖を握る。


「私はね……好きだよ、悠真くん。ずっと、ずっと前から。

 でも、これを言ったら、もう“幼なじみ”には戻れなくなるでしょ?」


その声が、震えていた。


俺は答えられなかった。

言葉が見つからなくて、ただ彼女の手を見つめていた。


「……ごめんね、変なこと言って」


彼女はそっと手を離し、笑おうとした。でも、その笑顔はすぐに崩れた。


「――バカだよね、私。ゲームの中のルールに怯えて、本音もちゃんと言えなくて」


目に涙を浮かべながら、彼女は背を向けて歩き出す。

その後ろ姿を、俺はただ見送ることしかできなかった。


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(白崎澪 視点)


本当は、もっと言いたかった。

他のヒロインなんて、出てこなければいいのに。

天音さんが隣の席なんて、ありえない。

どうして、悠真は気づかないの? 私がどれだけ怖い思いをしてるか。


でも、言えない。

言ってしまえば、全部壊れてしまう気がするから。


私にできることは、まだ始まっていない“恋”にすがることだけだった。


せめて、この気持ちが消えてしまわないうちに――

もう一度だけ、彼の隣に立てる未来がほしい。


たとえ、ルートに選ばれなくても。

たとえ、この恋が叶わなくても。


彼の隣で、もう少しだけ、笑っていたい。


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