ヒナちゃんが大好き

 ぼくはヒナちゃんが大好き。照れ屋さんであんまりおしゃべりしない子だけど、優しいにっこり笑顔がかわいいんだ。昨日、帰りにやった席替えで、なんと隣の席になれて大興奮。雨が降る窓の景色とは反対に、パステルカラーの世界でダンスして叫んでいたくらい。もちろん、心の中でってことだよ。

 それで今日は張り切りすぎて、とっても早く家を出た。元気に「いってきます」って言ったら、ママもびっくりして笑っていたよ。ヒナちゃんの隣に座るなら、遅刻してばかりってわけにもいかないもんね。頼りがいのあるかっこいいぼくになるんだ。あと、ヒナちゃんも早くに登校しているらしいから、教室で二人きりになれるかもしれないって妄想もしちゃう。


 昨日の雨でさっぱり洗い流したみたいに、街はキラキラしていた。夏休みが終わったばかりの季節でも、早朝は草と土の匂いがしてまだまだ涼しい。昨日までの時間だったら、青空はもっとパキッと自信に満ちていて、急いで走るぼくを厳しく見つめたけれど、この新鮮な匂いとあやふやな空気なら、親しくなれる気もしたよ。小川に沿う畦道を歩くぼくは、ちょうど昇りたてのお日様に向かっている。眩しくてしょうがないから、できるだけ水面の輝きや流れる水草に視線を預けていた。


「あ、トンボだ。」


 苔生したコンクリートの土手の下、川辺に生い茂った植物の隙間で青白い体が揺れた。シオカラトンボのオスだ。細い茎にしっかり掴まっている凛々しい姿に釘付けになる。黄昏をスイスイ飛ぶのも素敵だけど、葉の陰に隠れて静かに佇む朝のトンボにも心惹かれた。

 じっくり観察できそうだから、胸をドキドキさせながら、すぐ傍の土手に四つん這いになって顔をなるべく近づけた。唇を尖らせて、透明な翅にある葉脈みたいな模様を一つ一つなぞるように見つめる。しばらくずっとそうしていた。でも残念なことに、あの美しい碧色の複眼が葉に遮られて見えないんだ。少し躊躇したけれど、手も届きそうにないし、土手を降りてみることにした。ヒナちゃん、トンボは好きかな。どうせなら捕まえてみようって決めると、わくわくがもう一段高まる。


 ランドセルを近くに捨てて、梯子を使って降りるみたいにコンクリートブロックへ足を掛けた。そのとき、右足の運動靴が苔で滑った。一瞬、体が宙に浮いて時間がゆっくりになる。背中から草むらに落ちた。そんなに痛くはないけれど、全身が酷く汚れて気持ち悪い。急いでここから出ようとすると、上からヒナちゃんの声がした。

 目を丸くしてそっちを見る。いつもはお淑やかなヒナちゃんが驚いた様子でぼくを心配していた。近くにいたことに全く気が付かなかったけれど、ドンと落ちる音を聞いて駆けつけてくれたみたい。朝陽に照らされたヒナちゃんの一生懸命な顔を見ると、頬っぺたが熱くなる。汚れるのも気にせずに、ぼくの手を掴んで引き上げてくれた。初めて手を握ったんだ。心臓が張り裂けそうだよ。

 慌てて、トンボを捕まえようとしていたんだって説明したら、「そんなに好きなんだね」ってにっこり微笑んでくれた。何より好きなその笑顔を見せられて、ぼくはもっと熱くなる。


「ヒナちゃんにあげようと思ったんだ。」


 そう口走ってしまった。不自然な沈黙が横たわる。それを断ち切るようにヒナちゃんは、ぼくの肘に擦り傷を見つけて、絆創膏を貼ってくれた。きっと怪我なんてしないのに、ちゃんと絆創膏を備えているんだ。そういうところが好きだなって思うと、恥ずかしくなってヘラヘラ笑った。

 こんな服のまま学校に行くわけにいかないから、ぼくは一度家に帰ることにした。本当は一緒に学校まで歩きたかったけど仕方ないね。しょんぼりとそう告げると、ヒナちゃんは「わたしも行くよ。きっとお家の人に怒られちゃうもん。」といたずらっぽく笑って、ぼくの手を取った。


 「ぼくはヒナちゃんが大好き。」勇ましい青空の下、ぼくたちは遅刻するのも気にしないで一緒に歩いた。

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