『隠匿』中
4
孤月は目を見開いた。
女たちの名前を孤月は知っている。一人は舞。明るい茶色の髪をポニーテールにしている。もう一人は芽衣。黒い髪をベリーショートにしている。
この二人は二卵性の双子で、顔も性格も全く似ていない。舞が溌剌としたタイプで、芽衣が大人しい図書室にいそうなタイプ。
しかし、孤月はなぜそれを知っているかまでは分からない。
涼介は二人を家に招き入れた。
「悪い、さっきまで寝てたからちょっと散らかってる」
「そんな事ないじゃん、綺麗だよ! ね、芽衣」
「そうだね、舞ちゃん」
舞に突かれて、芽衣はぼんやりと笑う。今日も姉に連れ回されているらしい。
「涼介、今日は何すんの? サークルの人たち何時頃来るわけ?」
「何すんのって、そりゃ買い出しだったり準備だったり色々あるだろーが。可愛い子たちも来るんだからさ」
「やだ、私たちが可愛くないっていうの? 酷いわあ」
舞がわざとらしく肩を落とす。
そうだ、この女はこういう所がある。あまり好きではなかった。
孤月は自分に起こる感情に驚いた。もしかしたら、この涼介という男は自分なのか、と考える。
「そんなこと言ってねえよ、でもお前は彼氏がいるだろーが」
「あは、そりゃそう。大学で彼氏なしとか辛すぎて無理だもーん」
舞が笑うのを、芽衣が静かに見ている。色の無い目だ。
涼介は立ち上がって、出かける準備を始める。舞は芽衣に何やら言い、芽衣は頷いていた。
「涼介、芽衣がお酒とか買ってきてくれるから、私たちは食材とか買いに行こうよ」
「え、酒は重いだろ。芽衣ちゃん一人じゃ」
「いえ、大丈夫。私は車あるし。舞ちゃんと二人で行ってきて」
芽衣は微笑む。舞が隣でええ、と声を上げた。
「待ってよ、車は私たちが使うよ?」
「え? でもそうなると……」
「芽衣は力持ちだもん、行けるでしょ?」
「舞、さすがにそれはだめだろーが。大体免許持ってないだろ、お前」
「私は無いけど涼介が持ってるでしょ?」
「持ってたって保険の兼ね合いとか色々あんの。だめなもんはだめ。芽衣ちゃん、大変な方でごめんね」
涼介は手を合わせて頭を下げる。芽衣は手を振って、大丈夫と笑った。
舞は不貞腐れて、そっぽを向いている。
芽衣が先に出ていくと立ち上がると、孤月の目の前が唐突に真っ白になった。
――孤月が目を覚ますと、側には無月とアルがいた。無月は無表情で、アルは驚いたような顔をしている。
周りを見渡すと、涼介や双子たちはいない。真っ青な夜の書架だった。
「孤月。この本をどこで?」
無月の冷たい声が響く。孤月はああ、と先程の本棚を指差した。
「あそこから落ちたんだ。それを拾って読んでたら眠っていた」
思ったより掠れた言葉で返すと、無月は孤月の本を引ったくった。
「この本は私の本です。誰にも見せないように部屋に置いていました」
「……何が言いたいんだ?」
「無月。たまたま拾って読んでしまっただけだよ。彼は悪くない」
無月はアルをきっと見たが、すぐに首を振った。
「部屋に戻ります。孤月。もし、私の名前が書いてある本を見つけても絶対に読まないように。自分の学びに戻りなさい」
「何だよそれ。俺は書架の本を読んだだけだ。読むことも学びになるなら、お前に機会を取り上げられる筋合いはないと思うけど」
「これは私の為の記録であって、貴方には関係ない!」
無月は強く言い切ると、本を抱えたまま立ち去る。アルはその背を数歩は追うが、踵を返す。
「孤月。念のために聞くけれど、あの本はそこの本棚から落ちてきたんだね?」
「そうだよ」
「何が見えた?」
「男と女二人が出てきたよ。それだけ。何にもなかった」
「そうか」
アルが息を吐く。酷く疲れているように見えた。
「孤月、少し付き合ってくれるかい?」
5
月の書架の出口をくぐって、孤月はアルに付いていく。ガラス張りの長いトンネルのようだ。周囲は月明かりに照らされた海で、足元は水面より下がよく見える。
「ここは何だ?」
「書架の連絡通路だよ。普段は使わないけれど、今日は孤月がいるから来てみた。綺麗なところだろう?」
孤月が頷くと、アルは振り返った。
「僕が『月の書架』の書架長だった頃は、無月とここによく来ていたんだ。無月は海月が好きでね。満潮の時にはこの通路が埋まって、たくさんのミズクラゲを見ることが出来るんだ」
アルは歩くスピードを落として、壁際に寄る。向こうから半透明になった人の影が、ぞろぞろとやってくるのが見えた。
「孤月、耳を塞いで」
孤月は言われた通りにした。影たちはゆっくりと通り過ぎていく。酷い音だ。よく聞くと言葉のようだが、罵詈雑言とはこの事かもしれないというくらい、酷い。
気分が悪くなる。吐きそうだ。最後の一つが通り過ぎた時、雪でも降り出したのかというくらい寒く、静かになった。
「行ったね」
「ありゃなんだ、酷い言葉ばっかりだったぞ」
「あれは死魂だよ。アクセス権がない死人だ。救いを求めて書架まで行くけれど、入る事は出来ない」
「迷い魂とはまた違うのか?」
「違う。迷い魂は生きているかまだ学びの機会があって、たまたまここに紛れ込んだ魂だ。でも、死魂は違う。彼らは最期の機会を不意にして、時間だけ食って死んでしまったんだ。恨み辛みなんて意味がないってことにすら気が付かないままさ」
「生まれ変わりには回数制限でもあるのか?」
アルは首を振った。また前に進み始める。
「基本的には無いよ。でも一定の学びを得られない魂は、段々と力を失っていく。外的要因も関わってくるけれど、大体は自分の学びが足りなくて、最期の機会に気が付かないまま死んでしまうんだよ」
「そうか。それもまた、悲しいな」
「魂が死んだ時が本当の死だよ。何もかも無くなってしまう。誰からも忘れられてしまう」
孤月は響いているアルの言葉に胸が穿たれた気がした。今の自分には何も無いが、確かにここにある。しかしそれすらも無くなったら、誰にも認識されなくなったら。
「アルは、何故生きることを止めたんだ?」
「止めた訳じゃないよ。僕はここにある。現実で学んだことを活かして、今度はここで学んでいるんだ」
「ここで?」
「こうして色々な魂と関わるとね。自分だけで考えていたことの答え合わせのようなことが起きたり、逆に出会えていなかった問題を見つけたり、意外と学びが多いんだ」
アルが足を止めた。巨大な扉が、目の前に聳えている。
「本当なら、ここに普通の魂を連れてくる事は無いんだ。だけど、君には一度会って欲しい魂がいてね。僕の管轄の書架長だ」
「他にも書架があるのか?」
「もちろん。『月の書架』以外にもあるよ。『太陽の書架』『風の書架』……。無数にあって数え切れないくらいだ」
アルはさあ、と扉に手を掛ける。
外の水面で、丸い月が軋み上げた。
6
アルはここをエントランス、と表現したが、孤月にはそうは見えなかった。
海中だ。真っ青な世界に無数の魚たちが泳いでいる。自分たちはその中に浮かんでいて、ガラスと床で仕切られている。向こうから見ればぽっかり穴が空いていて、小さな生き物が動いているように見えるだろう。
魚たちは美しいが巨大で、人なんて彼らの頭程度の大きさだ。
「さあ、孤月。こっちだよ」
アルが空間の外に出られそうなドアに手を掛ける。
「それ、水が入ってきたらやばいんじゃ」
「ここは魂の世界だよ。現実みたいな事は起こらないさ」
アルの言葉に不安を覚えつつ、開かれたドアをくぐる。目を閉じ、息を止めたが冷たい感触に覆われる事は無かった。
ぽろん、と優しい音がする。
鼻をくすぐるいい香り、耳を楽しませるピアノの音。
孤月が恐る恐る目を開くと、夕焼け色の四角い場所だった。音楽室と図書室が混ざったような、そこまで広くない部屋。
窓から差し込む夕陽が暖かく、冷たい。
「ここが僕の管轄のひとつ、『落日の書架』だよ。月のとはまた雰囲気が違うんだ」
アルが奥の方に声を掛けると、小さなドアの向こうからぱたぱたと足音がする。
開いたドアから顔を覗かせたのは、学生くらいの女だった。三つ編みに眼鏡、そばかすが少しアクセント。
「アルさん、今日来る日でしたっけ?」
「急に申し訳ない。少しの間彼と話をして欲しくて連れてきた。『月の書架』の孤月だ」
女は瞬きをした後、孤月を見た。
「なるほど、お月様のところの。無月さんは知っていますか?」
「いや言ってない。でも僕から言うから大丈夫だ」
「また怒られますよー」
女はからからと笑った後、孤月の前に出て来た。小柄な女だ。青月より細いかもしれないが、彼女より血が通っていて健康そうだ。
「初めまして、孤月。私は夕刻です。可愛くない名前ですが、よろしくお願いします」
「ええと、孤月です。よろしく」
「では夕刻、よろしく頼むね。また彼を迎えに来るから」
アルは孤月の肩に手を置くと、またね、と言って立ち去る。
夕刻は長机とパイプ椅子の簡素なセットを用意して、孤月に座るよう促した。
「月のと比べると狭いし簡単なつくりでしょう? ここは日本の学校をイメージして作られているんです。来る人も少ないからこれくらいで十分で」
「ありがとう」
確かに人気がない。一人でにピアノが鳴っている。本棚の数も少なく、狭めの図書館程度だ。
夕刻は先程の部屋に入り、お茶を持って出てくる。
「『月の書架』はイメージで物を出せるそうですね。でもここは自分で用意するんです。物品が枯れることはないけど、補充が大変で」
「そうなのか。なんだか現実味があるんだな」
「はい。私が現実からあまりかけ離れた活動をしたくなくて。ほとんど人も来ないし、普段はあそこの事務室で過ごしています」
夕刻は孤月の向かいに座ると、お茶を飲み始めた。孤月もそれに倣う。
温かい緑茶が舌を湿らす。ほっとする。
「何でここに連れてこられたのか分からないんだけど、ここ落ち着く」
「そうですか? だとしたら良かったです」
夕刻はにっこり笑うと、机の下からお茶菓子も出してすすめてきた。
「私もよく分かりませんが、アルさんがする事なら何か意味があると思います。私とお話することで、何か得られればいいんですが」
そうか、と孤月が窓の外を見やる。乱反射した夕陽で目が眩んだが、向こうは校門があって、生徒たちが行き来している様子が見えた。
「夕刻、あれは?」
「あれは迷い魂です。あそこの校門から入って来て、出て行きます。大抵ここには来ないです」
「見た目が全然違うんだな」
「お月様のところは、どちらかと言うと年齢層が高めですからね。ここは若い方が来ることが多いです。だからか、はっきりと意識がある方も少ないんですよね」
寂しいんですけど、と夕刻が肩を落とす。
「でも、お月様のところより良いところもありますよ。なんてったって、日の光が入りますから。夕焼けですけど」
「夕焼けも綺麗じゃないか」
「そう、そうなんです。でも無月さんみたいに大きい所でも働いてみたいですけどねー。あ、そうだ。無月さんからもらった本がありました。読みます?」
「え? いいのか?」
夕刻は秘密ですよ、なんて言いながら、事務室の奥へ消える。
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